見出し画像

『正欲』感想 誰が主人公か

『正欲』、この物語が重く心にのしかかるのは何故だろうか。

「深くて考えさせられる」という浅く何も考えてないような感想がSNSにチラホラ見受けられるが、いったい何か多様性に対する考え方がこの映画によって前進したのだろうか。
そもそも前進するものなんだろうか。

個人が多様性をどう捉え生きていくかについて、この物語が提示したのは、水フェチの2人が異性愛者のする性交を擬似的に真似た場面にあると思う。


私たちは理解し合える人と生活を保障し合い、理解できない人たちのことを(排他的というよりは融和的に)「理解できないねー」って笑いながら理解し合う。それでようやく社会の一部になれる。
だからマジョリティはマイノリティのことを理解することで救おうと思うな。そもそも違う星にいるのだから交わることはできない。
(交われるとすれば、コロッケを落とした場面の桐生と寺井の仮初のコミュニケーションのような場合のみだ)


これが私があの場面から読み取った共存のあり方だ。

理解し合える人とはもちろん同じセクシャリティを持つ人のことであるが、これで「なるほど!多様性とはこうあるべきなのか、スッキリ!」と行くかというと全くそんな心持ちにはなってない。

それはどうしてもそこに辿り着けない人たちがいるからだ。
男性不信な神戸八重子は、自らを性的な対象としていない諸星大也を好きになる。
矢田部浩平は小児性愛を性的嗜好の一つとして持っている。
彼らはどうしても同志が不在だ。

いや同じ性的嗜好をもつ者として、この世界のどこかに同志はいるのかもしれないが、同志と出会えたとして佐々木と桐生のように手を取り合って明日生きるという戦略を立てることが難しい。

彼らはどうやって生きればいいのだ。
この物語の主人公は特殊性癖を持つ桐生たちのように見えてそうではないと私は思った。

おそろく何も答えが見出せないまま
私はマジョリティらしくこのモヤモヤをすぐに忘れるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?