井上靖『敦煌』
敦煌
トンコウ…
…トンコー…
…トゥヲン コゥ…
Dūnhuáng…
「敦煌」という響きが好きな気がする。「敦煌」ときいて、夕陽と砂に霞む情景を思い浮かべる。「敦」と「煌」が合わさって、「トーキョー」には感じない深みと余韻を感じる。
「トーキョー」は、何というかネオンで、ケータイで、ヘイセイで、サブカルチックだ。(いや、それも悪くはないか)
それはさておき、今回は井上靖の『敦煌』の話。
1900年。中国敦煌の石窟寺院から膨大な数の文献が発見された。800年あまり眠っていたそれらの発見は、まさに世紀の大発見というのだろう。
小説『敦煌』は、そこに文献が隠された経緯を、趙行徳というひとりの人物の人生を主軸にして紐解くフィクションである。
物語は淡々とした語り口で進んでいく。
冒頭、主人公行徳は役人を目指す試験に、まさかの理由で落第してしまう。生きる目標を失い途方に暮れつつ戻った街で、ひとりの女が「売り」に出されている場面に遭遇する。哀れに思った行徳が女を救けると、女から一切れの布片を渡される。布片には見たことのない文字が記されていた。それはこれまで様々な文献を読んできた行徳でも、存在すら知らないものだった。彼は突如として漲る探究心のままに、その文字の発祥である西夏へと向かう。
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話が進むと、行徳は軍に従事し、戦いにも出陣する。印象的なのは彼の生への執着があまりに薄いことだ。敵軍の中をひとり、馬に跨り駆けぬけ、重傷を負うこともしばしば。「生命に対する恐怖心というものは全く彼の躰から脱けて」おり、行徳自身は「自分の持つ運命に任せていればいい」と思っていた。
運命のなすがまま、行徳は役人を目指していた頃からは想像もつかぬ人生を歩むことになる。よく「運命に翻弄される」というが、彼は「運命に翻弄されに行った」ようなものだ。
兵に加わり、死線を幾度もくぐり抜けた。西夏に至ると、天から下された使命であるかのように翻訳作業に没頭した。人と親密になる時もあれば、疎遠になるときもあった。旅の途中で出会った女のことを、何度も思い出した。
そんな彼の淡々とした、しかし時に情熱的な性格はとても魅力的だ。
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歴史小説を読んだのは久しぶりだった。
しかし、生と死の近接感や、強く一途な思い、あらゆるものの儚さは、エアコンによって夏涼しく冬暖かく、スマホによって誰とでも簡単に連絡が取れ、福利厚生によって充分な暮らしを送る身からすると、現実離れしていて、一種の「憧れ」がある。
また、そんな時代の「どこからともなく洩れている淡い月光を浴びて、塩分の多い平原は琺瑯質のようなすべすべした表面を見せ、微かに青味を帯びて見え」る夜には、足を運んだこともないのに何故か郷愁の念を感じる。
小説を読むことで、私は逃避したい。そう改めて感じた作品だった。
逃避したいといっても、タイムスリップは機会があっても、したところで戦いの流れ矢に当たって死ぬか、捕虜になって殺されるか、飢えて野垂れ死ぬのが分かっているので、遠慮したい。
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次は辻仁成の『サヨナライツカ』を読もうとしている。舞台が1975年のバンコクとのことなので、気になっていた。少し読んで、早々に官能シーン()が始まったので感想を書ける内容か少し不安を感じている。
ともかく、今はアジアブームがきている。