“バスケットボール”
私がバスケットボールと出会ったのは小学校4年生の時。4年生以下の「フレッシュ」という大会に出場するのに、友達のチームは人数が足りなかった。そこで私に声をかけてくれたのだ。
その友達とは仲が良かったし、クラスの中では運動もできる方だった私は参加してみることにした。正直、当日の大会の記憶など1ミリもない。試合の勝敗すら。ただ、この経験が私の人生において大きな転機となった。
それまで私は新体操を習っていて、高学年になるタイミングで続けるか辞めるかという選択肢を迫られ、友達が辞めると言ったことやより高いレベルの指導を受ける意義を見つけられなかったことなど色々な理由が重なって私も辞める決断をした。その後、体を動かすことが好きだった私は様々な事に挑戦した。というより、かじってみたと言った方がふさわしいかもしれない。水泳や地域のスポーツクラブ、トランポリン、テニス、また陸上やダンスの体験をしに足を運んだこともあった。しかし、飽き性という性格もあって長くても1年しか続かなかった。つまんなくなったからやめたというよりは、もう満足したから来期の更新はしなくていいそんな程度だった。特に思い残すこともないまま、次はなにをやってみようかそんなことを考えていた。(と思う。)
そんな時に出会ったのがバスケットボールだった。最初は、友達の助けになればいいそんな気持ちで参加したバスケだったが、大会前のほんの数日の練習で惚れ込んでしまっていたのだ。練習がしたい。試合に出たい。そう思っている自分がいた。初めてだった。それから兄の習い事がひと段落した5年生の春、友達のいたミニバスチームに入会した。
少し経つと、上級生に混ざって試合に出してもらえるようになった。小学校1.2年生から始めている子がほとんどの中、チームのみんなは入ったばっかりの私をコート内だけでなく外でも受け入れてくれた。だんだんと自分のプレーが試合で通用するようになったり、シュートが決まった時にはみんなでハイタッチをしてコーチに褒められたり。もちろん、夏の暑い時期のラントレや練習後の雑巾掛けは本当に辛かった。けれど、自分のシュートが決まる感覚が気持ち良くて、今までの習い事では感じたことのない衝動に襲われた。誰よりも上手くなってやるそんな風にも思った。練習ではこんなこともあった。バスケットボールに限った話ではないかもしれないが、試合中にコーチに大きな声で怒鳴られることがしばしばいや、毎日のようにある。当時の私は、怒られる時はもちろん、褒められた時でさえ泣き出してしまうメンタルの弱い子だった。泣いた日の練習後、コーチが私の親に「泣かすつもりはなかったんです…褒めてたのに(焦)」なんて言っているのを聞いたことがあった。それでもコーチは私に技術面から人間としての行いまで丁寧に指導してくれた。コーチには本当に感謝をしている。でも、当時10~12歳の私にとって、大人の人に目の前で大きな声を出されたらそりゃ怖いよなぁ〜、なんてフォローしてみたり…(笑)
数ヶ月に一回、大会に出ることもあった。私のチームは特別強いことはなく、むしろ弱小チームだった。だから一試合でも多く勝とう、そんな言葉をいつも掛けられていた。そんなチームだったから大会に負けたくらいで悔し涙を流す人は一人としていなかった(らしい)。だから私が試合に負けて泣きじゃくっていた時は慰められるより先に驚かれた。
そんな私のミニバス生活も引退間近になり、最後の大会が行われた。前にも書いた通り私のチームは弱小。市内では、毎回底辺争いをしていた。だからこそ引退試合くらいは底辺より一つ上の順位(何チームあったか覚えてない)をとって終わりたいそう思っていた。案の定その試合は接戦になり、勝てる!と思う瞬間が何度かあった。しかし最終的に私のチームは競り負けてしまった。悔しかった。絶対に勝てる試合だった。次頑張ろう!はもう言えないと思った瞬間に涙が止まらなくなった。
それから一年後、私は市内で最も強いバスケ部のある中学校へ入学し、そのバスケ部に入部した。選んだわけではない。ただ、学区内の中学校が市内で一番強かった、それだけだった。ところが、そこで予想だにしないことが起こった。ミニバスの引退試合で1.2.3位になったチームの主要メンバーがうちの中学に入学していたのだ。それもこのバスケ部に入るために。私は愕然とした。けれど、すぐにこう思った。こんな人たちと一緒にやればもっと上手くなれるかもしれないと。振り返ってみれば、当時の自分の勇気を称えたい。なぜならここでのバスケ経験が全8年間の中で、間違いなく最も充実した時間だったから。
中学校でのバスケ生活は、ほとんどがベンチかBチームだった。ミニバスでは最初に名前が呼ばれ、私にボールが集まるのが当たり前だった私の常識が一変した。とても受け入れがたかった。けれど、その辛さよりもこのレベルの高い人たちと練習を共にできていることがうれしくて、何度でも這い上がろう、もっと強くなろうと無我夢中になって練習に取り組んでいた。そんなある日、母からこんなことを言われた。「何か一つ輝くものを作りなさい。人より秀でたものを作りなさい。そうすれば必ず試合に出してもらえるから」。バスケの知識なんてまるでない母だったけれど、この言葉を信じて自分にできることを探した。それはスリーポイントシュートだった。当時スリーポイントだけを極める人は多くはなかったし、中学から導入されるルールということもあってまだ追いつけると思った。この選択によって私のバスケ人生に光りが射した。
私のチームは、ガード、ポイントガード、フォワード、シューター、センターの5つで構成されていた。もちろん私はシューターとして試合に出た。Bチームで。ある日、突然、スタメンでシューターだったメンバーの一人が転校することになった。友達としてはもちろん、チームとしても大きな戦力がいなくなることで大打撃を受けた。しかし、私にとっては最初で最後の大チャンスが訪れた。この子がいなくなったことで、シューターの枠が空いたのだ。もしかしたらスタメンに入れるかもしれない、そう思った。それからさらに自主練に熱が入り、人の何十倍もシュートを放った。その甲斐あって、ついに私は晴れてスタメンに選ばれたのだ。こんな下克上があるのか、と思うかもしれないが本当の話。私は、あのミニバスで1.2.3位の人たちと一緒に試合に出ている。他のメンバーがパス回しやドライブをすることで私のディフェンスを引きつけ、そこでパスをもらって私がシュートを決める。そんな誰も予想していなかった景色が目の前に広がっていたのだ。さぞかし気持ちよかったことだろう。監督は私の「一つ輝くもの」を買ってくれてスタメンに抜擢してくれたのだ。本当に本当に嬉しかった。そのあとも、若干の波はあったものの、大事な場面でパスが回ってきてシュートを決めて点差逆転!なんてシーンを何度も経験した。引退のかかった最後の試合では、ただでさえ背の低いシューターに県選抜に選ばれた相手チームのキャプテンがついた。構えてる時間なんてなかった。やっと打てたと思ったら頭上でボールが弾かれる。その繰り返しだった。結局、目標としていた県ベスト8には手が届かなかった。もちろん悔しかった。けれどこの流した涙は負けたことへの涙ではなくて、こんな恵まれた環境でみんなともうバスケが出来なくなることへの涙だったと思う。ミニバスでは市内大会で一勝も上げることができなかった私が、市内で7連続優勝さらに県大会の舞台にまで立つことができた。もう達成感しかなかった。
その後、受験を終え高校のバスケ部に入部した。もうバスケはごりごり。完全燃焼した。そう思っていたのにバスケ部に入部した。その理由は単純で、炎天下の中テニスやソフトボールをやりたいともミニスカートを履いてチアをやりたいとも思わなかったからだ。こんな単純な理由で、私はバスケの世界に戻ってきた。しかし高校で経験したバスケは、私の思い描いていたものとはまるで違っていた。もちろん、バスケレベルも違った。けれどそれ以上に違ったのは、ゲーム中、当たり前のように自分にボールが集まってこないことだった。何うぬぼれたことを言っているんだと思うかもしれない。しかし、今までの感覚が完全に体に刷り込まれていることに気が付いた。と同時に、中学時代私が決めていたシュートは自分ひとりの力で決めたものではなく、残り4人のメンバーの力で作り上げてくれたものだったと気づいた。もちろん私が放ってはいたけれど、それは最後の一手であってその前に他4人のプレーがあったからこそ生まれたゴールだったのだ。高校ではそれが通用しない、そうわかっていながらもこの壁を乗り越えるには時間がかかった。それからというもの、高校での部活動では副部長を務めスタメンとして試合に多く出ることができた。中学の時とは全く違ったスタイルの”バスケットボール”だったけれど、最高の思い出を作れることができた。今でも部活のメンバーと遊ぶことが多い。だから、この部活に入って本当に良かった。そう思える。
これで私のバスケ人生がおわるそのはずだった、、、
しかしこの後の出来事が私の中の”バスケットボール”という概念を良くも悪くもぶち壊してしまった。
私は、人生で二度目の受験を終え大学へ入学した。ザ・大学生のような飲んで遊んでというサークル(当時の妄想)に入りたくないと強く思い、新歓に行ってからすぐバスケ部に入部することを決めた。部活動を選んだ理由はそれだけではなかったと思う。部活動の雰囲気やバスケに対する熱量に感銘を受けたこともそうだけれど、ひそかに中学の栄光を取り戻せると思っていたのかもしれない。
ところが蓋を開けてみると、都や県で上位にいたチーム出身の人がほとんどだった。初めて聞いた練習メニューがいくつもあった。普通であれば新しいことを覚えそれが身についていく感覚はとても新鮮で楽しいことかもしれない。しかし私は、それよりも自分の知らない世界が広がっていくことへの恐怖に怯えてしまった。ミニバス、中学、高校と8年間もチームの中心となってバスケに取り組み、“エース“と言われたこともあった。高校時代の監督に、高校生じゃスリーポイントは3割入れば大したもんだと言われ(実際はわからない)、練習では毎回4割に乗せて褒められたこともあった。しかしそんなレベルではなかった。ラントレの量やパスの速度、シュート率やゲーム展開の速さまで。全てが新しかった。今まで私がやってきたものは何だったんだろうか。私の練習してきた“バスケットボール“はバスケだったのだろうかと思うようになってしまった。すごくショックだった。このまま4年間続けても、今までのバスケは通用しない。また新しく一から習得しなければならない。さらに、今までのように晴れ舞台に立てる保証も希望もない。そんな風に考えるようになり、部活に行くのが嫌になって(拘束時間や古傷など他にも理由はあった)、これ以上みんなと仲良くなる前に部活動を辞める決断を下した。自分の中の“バスケットボール“がなくなってしまわないためにも。
ついに、私の“バスケットボール“人生は幕を閉じた。
最後の最後に挫折を味わったけれど、“バスケットボール“は私の生きてきた20年間を語る上で欠かせない存在で、何と言ってもバスケを通して出会えたかけがえのない仲間がいる。だからこそ、その仲間達と切磋琢磨して得た喜びや感動、また悔し涙を忘れたくないそう思って、初めにこのnoteを書くことに決めた。
ミニバスで“バスケットボール“に出会った私は、果たしてこんな物語がこれから始まることが予想できただろうか。大学で部活動に入り、その上自分の信じてきた“バスケットボール“というものを疑うことになると思っていただろうか。
けれど私はこう思う。
どんな苦い思い出が残ろうとも、これら全ての経験があるからこそ今の自分がある。何事もやってみなきゃわからない。やってみて初めて自分の才能や価値に気づくこともある。バスケ一つとってみてもこれだけ違った世界がある。足を踏み入れてみなければ知ることのなかった世界がある。だからこそ、「人生は面白い」。
そうやってこれからも色んなことに挑戦し続けたい。たまに泣いてしまうこともあるかもしれない。けれど、いい映画にも笑いや涙があるように、人生にも笑いや涙は必要不可欠。だから笑って泣いて、自分だけのカラフルな人生を送っていきたい!
「人生はその人次第で何色にも輝くから」