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【父について】

箪笥を整理していて古い封筒に入った父の名簿を見つけた。

「舞志水同年兵平十月会名簿」とある。

これは昭和19年10月に、父が入団した海軍の舞鶴平海兵団
の同年兵が、戦後42年経って集まった時のものだ。

父は、昭和2年の生まれだから17歳で入団したことになる。

終戦の1年足らず前だから戦局は思わしくなく、志願とあるが
召集されたものと思う。

見開きのあいさつ文にこうある


『私達は分隊教班が違ても舞鶴平会兵団に入団した同年兵であります。

年令は14才から18才までの少年兵でありました。

当時の戦局は激烈を極め老若男女ともその場に全力を持って

精進しなければならない時勢でありました。

少年ながら国を護る心意気は大人以上に情熱に燃え将来の希望を
抱いた年頃でありました。

男なら海軍へと志望しました。

入団後は基礎訓練は並々ならぬ教育訓練で各人の努力を必要としました。

手旗訓練に泣き、カッタ(短艇)訓練では尻を「ムキ」陸戦では肘を「ムキ」
駆け足では胸が裂ける程の食前の駐足。

食い盛り伸び盛りの年頃では食事時間は何よりも待ち遠しく、
「食卓班集合」の号令は何よりも慰めの号令でありました。

又消灯ラッパは故里の父母兄弟を思い出す、胸の休まる祈りの時でも
ありました。

総ては海軍々人としての精神訓練の場であったと思います。

海兵団教育終了後は衣のう一つを持って艦船勤務、防備対、
術科学校などへ散々伍々命令の勤務地へ出発帽触れの号令で

二度と逢えない同年兵の別れでありました。』

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父からは、「海軍に入隊したものの戦地に行く前に終戦となり
帰って来ることが出来た。毎日まいにち叩かれに行ったようだった」。

とだけ聞いたことがあるが、戦時中の事は詳しく話した記憶がない。

もう少し終戦が遅くなっていて、父が戦地に行っていたらもしかして
今の自分はこの世にいなかったかもしれない。

終戦記念日の今日、戦争のために亡くなられた全ての方の

ご冥福をお祈りする。合掌

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