#80 腸内環境理解のための生物学入門。Part10: 研究コンソーシアム、ヒトゲノム計画。
現役の腸内細菌研究者がお届けする腸内細菌相談室。
室長の鈴木大輔がお届けします。
腸内環境を理解するために必要な生物学の素養を身につける本シリーズ。ついに2桁の大台、第10回目のエピソードに突入です。前回までに、遺伝情報の本質である塩基配列を解読する技術として、サンガー法のお話をしてきました。今回は、サンガー法の技術を応用して、ヒトのゲノムを読むという試み、ヒトゲノム計画についてお話します。
サンガー法では、数百から1000塩基対の配列決定を行うのに対して、今回塩基配列の解読対象となるヒトゲノムは、30億塩基対です。途方も無い遺伝情報の解読作業に取り組んだ人たちの物語をお楽しみ下さい!
このお話は、聴いて楽しむポッドキャストでも公開しております!ぜひ遊びに来てください!
国家プロジェクトとしてのヒトゲノム計画
ヒトのゲノムを読む。これは、人類のアイデンティティとは何か、その正体迫る科学の大きな試みであるといえます。ヒトゲノム計画発足当初は、ヒトのゲノムはどのような塩基配列に刻まれており、どのような意味をもつのか分かっていませんでした。もちろん現在もヒトゲノムについての研究は行われているのですが、まずは足がかりとしてヒトゲノムの配列決定を行う必要があります。
そこで、1990年にアメリカは30億$、当時の日本円に換算すると4320億円を投じて1*ヒトゲノムの配列決定に乗り出します。1つのプロジェクトに0.4兆円と考えると、アメリカの研究開発に対する熱意が伺えます。このプロジェクトは、当時15箇年計画としてスタートしました。
プロジェクトには、アメリカ、日本、イギリス、フランス、ドイツ、中国の6カ国が参画しており2*、初めての国家間を跨いだ大規模な研究事例です。協同で研究を推進するためには、ゲノム解読のどの技術開発をどの国がやるか、ゲノムのどの領域をどの国が担当するのか、など国家間、研究機関間の調整が重要になります。ここでの共同研究事例は、研究機関の共同体である研究コンソーシアムの先駆けとして、後世にとって重要なケーススタディとなっています。
ヒトゲノムの解読を行うにあたり、従来の方法と比較してより高効率に塩基配列の解読=シーケンシングを行う必要がありました。ここでは、サンガー法を基盤技術として、シーケンシングの自動化や高効率の蛍光分析の開発など、様々な研究開発が行われました。
2000年になり、ヒトゲノムのドラフトゲノムと呼ばれる9割の配列解読が終了したゲノムが提出されます。2000年6月26日に、アメリカの大統領ビル・クリントン、イギリスの首相トニー・ブレアは、この報告を世界へとアナウンスしました3*。この会見会場には、とある企業も発表に加わっています。それは、ヒトゲノム計画の完成を加速させることになった民間企業、セレラ社です。
民間企業の台頭:セレラ社
1998年設立のセレラ社は、IT✗バイオの領域を事業の軸として時代を先取りしていた先端的な企業でした。基本的な事業内容としては、生物の全ゲノム=データを収集して販売するというものです。ゲノム情報が、向こう数年から数十年かけて重要項目になると見越した判断でした。
セレラ社は、ヒトゲノム計画に参画する上で、全く新しいシーケンシング方法の開発に乗り出しています。それは、ショットガンゲノムシーケンシングです。これは、次世代シーケンシングと呼ばれる現代の生物学研究には欠かせない技術の興りです。
ショットガンゲノムシーケンシングとは、対象となるDNA配列を断片化し、断片化されたDNA配列を並列的に決定していく手法となります。つまり、解析対象のDNA断片の解読作業を並列的に高速で行うというものです。得られたDNA断片をそれぞれ比較し、重複する配列領域=オーバーラップをもとにつなぎ合わせていきます。この、数百塩基対のDNA断片を1本のDNAに再構成する過程をアセンブリと呼びます。
アセンブリをする際には、無数のDNA断片の配列同士を比較する作業が続きます。DNA断片の数が増えるに伴って、比較する作業量=計算量は指数関数的に多くなります。したがって、アセンブリには計算機資源が重要でした。高速なアセンブリの技術と、計算機資源が揃ったことで、ショットガンゲノムシーケンシングは可能となりました。
全く新しいシーケンシング方法のショットガンゲノムシーケンシングにより、セレラ社はアメリカ予算の1/10、3億ドル程度でドラフトゲノムの解析を終えます。
ヒトゲノムのドラフトゲノムを、研究コンソーシアムが先に決定するのか、あるいは1つの民間企業が先をこすのか、この競争は両者のプライドを賭けたものでした。この競争が、結果としてヒトゲノム計画が2年早く完了した要因の1つで有ると考えられています。2003年には、完全版のヒトゲノムが公開されました。計画の策定時から13年の出来事でした。
バイオインフォマティクスはヒトゲノム計画の上に成り立つ。
ヒトゲノム計画についてお話したところで、ヒトゲノム計画を基礎として盛り上がりを見せる学問領域のお話をしていきます。
バイオインフォマティクスと呼ばれる、生物学と情報学の学際分野をご存知でしょうか?生き物が生きる上では、ゲノムが必要です。ゲノムは塩基配列に刻まれた情報ですから、情報学の範疇であるとも言えるでしょう。
現在、バイオインフォマティクスの分野が、社会の様々な領域にて活躍を始めています。例えば、がんゲノム医療です。患者のゲノムを調べることで、がんの原因となる遺伝子変異を特定するのもバイオインフォマティクスの仕事になります。他にも、生態学の環境ゲノム解析、創薬分野などでもバイオインフォマティクスは活躍します。
現在、バイオインフォマティクスが1つの分野として盛り上がっているのは、ヒトゲノム計画によるところが大きいです。効率的なシーケンシング技術、アセンブリを始めとした解析技術の開発、研究コンソーシアムの成功事例の確立など、その功績は大きいです。もちろん、コンピュータの演算能力が飛躍的に向上したのも、バイオインフォマティクスの発展を後押しすることになっています。
ヒトゲノム計画に続いて
ヒトゲノム計画では問題もありました。それは、コストです。ヒトゲノム計画の際には430億塩基対が読まれたと言われているので、10億塩基対の解読に100億円が投じられた試算になります1*。つまり、生き物のゲノムを研究対象にするというのは、当時の技術ではよほどのお金がない限りは非現実的だったのです。
そこで、ヒトゲノム計画の完了に続いて、シーケンシングの技術は大きな発展を遂げることになります。次回は、バイオインフォマティクスの普及に重要となった、次世代シーケンサーについてお話していきます。
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それでは、本日も一日、お疲れさまでした。
参考文献
1* 後藤 友二, ヒトのゲノムはつくれるのか?, 東邦大学, Access: 2022/11/07
2* 【News Letter】なぜ米国は「ヒトゲノム計画」で成功を収めることができたのか 同計画を通じて見えてきた「基礎研究から知財を生み出す方法論」, 一般社団法人ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン, 2019/9/27, Access: 2022/11/7.
3* 詫摩雅子, 知の21世紀へ, 特集:ヒトゲノム解読をめぐる競争, 日経サイエンス 2000年9月号, Access: 2022/11/7.
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