「好きなものを好きと言うべき」だとゲームの死から学んだ奴がそうしていない件について考える会
僕は昔書いた記事で、こういうことを言っている。
これは今でも同じ考えを持っている。好きなことを好きと僕はもっと言わなければいけないと思っている。その一方で、じゃあ最近の僕がそれをどれほど実現できているのかと言えば、正直に言ってあまり実現できていない。これだけ『GGST』を遊んでいて、ゲームが好きに決まっているのに、僕がもっぱら配信で口にするのはソル=バッドガイを使われて適当に押されたSボタンに対する悪口ばかりである。どんな状況でもボタンを押し続ける中国語の読めない名前のプレイヤーに対する憎悪の感情である。経験と洞察を次に生かす責任があるといって置きながら、実際には負の感情をまき散らしており、まったく有言実行できていない。ただの口だけ野郎になってしまっている。
この状況は良くないとぼんやりと思っていて、それは最近のnoteを更新する際にもずっと頭を過っていた。僕はもっとポジティブな表現をしたいのではなかったか。今日遊んだゲームが面白いのだと更新することが、好きなものをちゃんと好きだと言うことが、ゲームの死を受けて、あるいは身近な友人の死を受けて、それらが生きているうちにやるべきことなのではなかったか。言葉届くうちに、後悔しないために、するべきことではなかったか。
通院している歯医者でむし歯の治療をされながら、このことについて考えていた。「好きなことを好きと言え」というのは簡単だけれど、実際には結構難しいことなのではないか、ということについて考えた話だ。
好きは攻撃性を含んでいる
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