本稿の狙い(と気張る内容ではないが)と①はこちら。
かつての知将が認めた男
前回取り上げた三原脩(1914~1984)が、日本ハムファイターズ(以下ファイターズ)球団社長時代の1975年秋に監督として招聘したのが、後年TBS系日曜朝の情報番組のスポーツコーナーでおなじみだった「親分」こと大沢啓二(1932-2010)。
浜田氏の『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫)における大沢の章をひも解く前に、大沢自身の著書『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社)からファイターズ監督就任時の三原とのやり取りを引用する。
大沢啓二は現役時代、主に南海ホークスのセンターとして活躍した。
1959年日本シリーズではホークスの勝利に貢献する好守を二度見せている。
なお、ずっと後に大沢の愛称となる「親分」は元々当時の南海ホークス監督・鶴岡一人(1916~2000)がそう呼ばれていたもの。
1965年に東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズの前身)へ移籍。同年限りで引退後は球団名がロッテに変わった同球団のコーチ、二軍監督を歴任し、1971年途中から1972年まで一軍監督も務めた。成績の上下に球団内の動きが絡んで短命政権に終わるが、機動力を取り入れた戦いぶりや大胆なチーム刷新策は当人の弁舌と絡み話題を集めた。
退任後はラジオ日本の解説者に転じ、人気を得ていたところで舞い込んだのがファイターズからの監督要請だった。
三原が大沢招聘を考えた背景はこの大沢の球歴だと『監督たちの戦い』を著した浜田氏はみている。
しかし、大沢もさるもの。三原にこんな突っ込みを入れている。
元広島監督ジョー・ルーツ、ジャイアンツの参謀だった牧野茂が有力な監督候補にあがるなかで大沢を推した三原の説得と大社義規オーナーの情熱に動かされ、大沢はファイターズ監督就任を受諾した。
『監督たちの戦い』にはこうある。
「野戦病院」からの逆襲
意気揚々と乗り込んだ大沢だが、ファイターズの内情は寂しかった。
ドラフト戦略は、当時のパ・リーグは不人気でなかなか有望株が振り向いてくれないためスカウトの動きが鈍く、指名した選手は殆ど使いものにならない。
競争相手の力の無さをいいことに鍛錬不足の中堅選手が目立ち、見かねた大沢がひとムチ入れると「あそこが痛い」「ここをけがした」と次から次に離脱者が出た。この状況で大沢の口から出た言葉が「野戦病院」である。
チーム再構築のため、大沢は球団社長の三原と協力して大胆なトレードを次々と敢行する。
大沢の苦闘と支えた大社義規オーナーの様子を『監督たちの戦い』はこう描く。
『球道無頼』によれば大沢は出場停止の間、コーチにローテーションで代理監督させた。理由は資質を見極めるため。
かねてより大沢がアンパイアへクレームつけようとベンチを飛び出しているのに静観するコーチが目立ち、「戦いにならない」と内心憤慨していた。そこでセンスの有無や真剣に勝つ気があるのかを、代理監督の様子で判断しようとしたのだ。
出場停止を人物評定の機会にしてしまう発想、やはり三原さんとは別の意味で破格のひと。
-下に続く-
※文中一部敬称略※
【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 上・下』(日経ビジネス人文庫;2001年)
大沢啓二『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社)