プロ野球賢者の書(特別編)【浜田昭八の見つめた球界の賢者】②大沢啓二・上


本稿の狙い(と気張る内容ではないが)と①はこちら。

かつての知将が認めた男

前回取り上げた三原脩(1914~1984)が、日本ハムファイターズ(以下ファイターズ)球団社長時代の1975年秋に監督として招聘したのが、後年TBS系日曜朝の情報番組のスポーツコーナーでおなじみだった「親分」こと大沢啓二(1932-2010)。

浜田氏の『監督たちの戦い 決定版』(日経ビジネス人文庫)における大沢の章をひも解く前に、大沢自身の著書『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社)からファイターズ監督就任時の三原とのやり取りを引用する。

ある日、俺の家の電話が鳴った。
「三原ですが」
誰だか、俺にはさっぱりわからねえ。
それで、聞き返すと、
「日本ハム球団社長の三原脩です」
ときた。
それがあの西鉄黄金時代の名監督だった三原さんだとはすぐにはわからなかった。その時は、わけがわからなかった。だって、考えてもみろよ。敵の監督としての三原さんは知っていても、俺は話したこともねえし、まさか電話があるとは思わねえからな。
するとな、三原さんはこう言うじゃねえか。
「大沢君に話がある。よかったら、明日、時間をつくってくれないか」
翌日、俺は指定された銀座の天ぷら屋に向かった。
席に座って、俺がなんの話だか見当がつかないでいるとな、正面の三原さんがこう切り出してきたんだ。
「突然だが、日本ハムの監督をやってもらえんだろうか」
とにかくびっくりしたよ。面識のない俺に監督を頼むなんてな。
それに、三原さんの教え子にも優秀な人間は数多くいるはずよ。ましてや、今の日本ハムは、三原さんの娘婿の中西太が監督をやっているのに、そのクビを切ってまで俺に頼むとはどういうことか。不思議でならなかったよ。
(中略)
それでな、とにかく、どうして俺なのか三原さんに理由を聞いてみた。するとな、「今のチームを強くするにはキミが適任者なんだ」
そう言ったきり、三原さんは、あとの理由を言おうとしねえんだ。まあ、あえて俺もそれ以上のことは聞かなかったけどよ。ただ、俺が思うにな、三原さんは、俺の勝負師としての根性というか、そういったものを買ってくれたんじゃねえかな。

大沢啓二『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社)pp.137-pp.138

大沢啓二は現役時代、主に南海ホークスのセンターとして活躍した。
1959年日本シリーズではホークスの勝利に貢献する好守を二度見せている。
なお、ずっと後に大沢の愛称となる「親分」は元々当時の南海ホークス監督・鶴岡一人(1916~2000)がそう呼ばれていたもの。
1965年に東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズの前身)へ移籍。同年限りで引退後は球団名がロッテに変わった同球団のコーチ、二軍監督を歴任し、1971年途中から1972年まで一軍監督も務めた。成績の上下に球団内の動きが絡んで短命政権に終わるが、機動力を取り入れた戦いぶりや大胆なチーム刷新策は当人の弁舌と絡み話題を集めた。
退任後はラジオ日本の解説者に転じ、人気を得ていたところで舞い込んだのがファイターズからの監督要請だった。

三原が大沢招聘を考えた背景はこの大沢の球歴だと『監督たちの戦い』を著した浜田氏はみている。

現役時代の大沢は抜け目のないプレーを見せ、敵に嫌がられる存在だった。南海が巨人にストレート勝ちした1959年日本シリーズでの美技は、語り草になっている。長嶋茂雄の右中間大飛球を好捕、森昌彦(祗晶)の遊撃越えサヨナラ打を阻止した。打球のコースを読んだシフトは、外野手として最高の頭脳プレーと評価された。
1972年秋、ロッテ監督を辞任してラジオ関東(現ラジオ日本)の解説者になった。監督時代に解説者の結果論に悩まされたから、立場が変わっても、あのような解説はすまいと思った。投手の調子、打者のスイング、風向きなどを計算し、守る位置をこまめに変えた現役時代の体験が、解説でも生きた。試合展開の読みが、よく当たると好評だった。
(中略)
日本ハムの監督は、三原の娘婿中西太が2年間務めた。最高の打撃コーチだが、監督向きの性格ではなかった。元広島監督ジョー・ルーツ、川上巨人のヘッドコーチだった牧野茂らが後任候補にあがった。だが、三原は大沢を推した。西鉄監督として、南海大沢の憎いプレーを何度も見ていた。味な解説も高く評価していた。

浜田昭八『監督たちの戦い 決定版・下』(日経ビジネス人文庫)pp.205-pp.206

しかし、大沢もさるもの。三原にこんな突っ込みを入れている。

でもな、正直言って、俺は三原さんが監督をやったほうがいいんじゃねえかと思ったんだ。俺も、もう一度、あの三原マジックを見たかったしな。で、それを言ったら、「無理だ。俺はもう年だから」。
と寂しそうにうつむいてな。そして、こう言うわけよ。「キミならできる。日本ハムを優勝できるチームにしてくれ」。
俺は、こう答えた。
「返事する前に、オーナーに会わせていただけませんか」。
日本ハムのオーナーっていうのは、どんな人なのか、どんな考えで球団を経営しているのかを聞きたかったんだ。いい加減なオーナーの下じゃ、やりたくねえからな。
それから2~3日後のことよ。俺は広島と阪急の日本シリーズを解説するために大阪に来ていた。そこで日本ハムの大社義規オーナーと会ったんだ。
場所はロイヤルホテルだった。大社オーナーとふたりだけでいろいろ話してな。オーナーの人間の大きさ、野球に対する情熱っていうのを感じたわけよ。「この人なら大丈夫だ」って思ったね。

大沢啓二『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社)pp.141-pp.143

元広島監督ジョー・ルーツ、ジャイアンツの参謀だった牧野茂が有力な監督候補にあがるなかで大沢を推した三原の説得と大社義規オーナーの情熱に動かされ、大沢はファイターズ監督就任を受諾した。
『監督たちの戦い』にはこうある。

不完全燃焼だったロッテでの思いを払うときがきた。契約金1千万円。期間は2年のはずだった。だがこれが、監督8年、半年の監督救援を含めてフロント9年、返り咲き監督2年、合わせて19年におよぶ波乱の日本ハムでの生活のスタートになるとは、本人も思いもよらなかった。

浜田昭八『監督たちの戦い 決定版・下』(日経ビジネス人文庫)pp.207

「野戦病院」からの逆襲

意気揚々と乗り込んだ大沢だが、ファイターズの内情は寂しかった。
ドラフト戦略は、当時のパ・リーグは不人気でなかなか有望株が振り向いてくれないためスカウトの動きが鈍く、指名した選手は殆ど使いものにならない。
競争相手の力の無さをいいことに鍛錬不足の中堅選手が目立ち、見かねた大沢がひとムチ入れると「あそこが痛い」「ここをけがした」と次から次に離脱者が出た。この状況で大沢の口から出た言葉が「野戦病院」である。
チーム再構築のため、大沢は球団社長の三原と協力して大胆なトレードを次々と敢行する。

大沢の苦闘と支えた大社義規オーナーの様子を『監督たちの戦い』はこう描く。

「これは補強ではなく、補充である」と大沢の恩師、南海監督の鶴岡一人が言ったことがある。毎年、何人かの選手が力尽きたり、限界を感じて消えていく。その穴を埋めるか、飛躍する可能性の高い新人が入るなら補強だが、そうでなければただの員数合わせ。カネを出し渋る球団に対する、鶴岡独特の鋭いけん制球だった。
大沢が日本ハム監督として球界に戻った1975年秋のドラフト指名が、まさに補充に近いものだった。6人指名のうち、1、3、5位の3人は、他球団のスカウトが首をかしげる選手。当たればスカウトの大手柄だが、いずれも在籍3年から5年で1軍出場がないままに去った。球団の健全経営と強化は相いれないのが、この世界の常である。

前掲書pp.207

ドラフト戦線で後れをとったのだから、即戦力はトレードに頼るしかない。張本勲を巨人に出し、交換で左腕高橋一三と内野手富田勝をとったのが、最大のトレードだった。前年までに大杉勝男、白仁天、大下剛史はトレードされ、これで「駒沢の暴れん坊」東映フライヤーズ色は、ほぼ消えた。
76年のシーズンが始めると、故障者が続出した。徳島・鳴門キャンプのときから、大沢が「ここは野戦病院か」と言うほどケガ人が出ていた。薄い選手層で戦ってきたツケが回ってきた。
この頃は阪急の戦力が充実していた。真正面から当たっても、はね返された。ただ強いだけでなく、ヤジも辛らつで、投手の内角攻めも厳しかった。「ファイトで戦力を補えるとは言わないが、もう少し向かっていけ」と、阪急戦での大沢のボルテージは上がった。同年六月の試合で、死球を巡って阪急投手の竹村一義の頭をポカリとやり、一週間の出場停止と5万円の罰金を食った。
76、77年ともに5位。改革の歩みは遅々として進まなかった。オーナー大社義規は「最多観戦オーナー」といわれるほど、熱心に観戦した。2年間の成績は悪くても、見どころありと感じたのだろう。球団、親会社の周辺で監督人事が話題になっても、決まって大沢を擁護した。ただ”タニマチ感覚”で監督、選手をでき愛する旧いタイプのオーナーではなく、球団経営の感覚は、きわめてシビアだった。

前掲書pp.208-pp.209

『球道無頼』によれば大沢は出場停止の間、コーチにローテーションで代理監督させた。理由は資質を見極めるため。
かねてより大沢がアンパイアへクレームつけようとベンチを飛び出しているのに静観するコーチが目立ち、「戦いにならない」と内心憤慨していた。そこでセンスの有無や真剣に勝つ気があるのかを、代理監督の様子で判断しようとしたのだ。
出場停止を人物評定の機会にしてしまう発想、やはり三原さんとは別の意味で破格のひと。

-下に続く-

※文中一部敬称略※

【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 上・下』(日経ビジネス人文庫;2001年)
大沢啓二『球道無頼 こんな野球をやってきた』(集英社)

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