東京2020オリンピックに寄せて【傷ついた8年間】
オリンピック招致を望んだ理由
1980年生まれの筆者は1955年生まれの母から1964年東京五輪の記憶を聞いて育った。開会式のテレビ中継の感動、三宅義信が日本の金メダル第1号を獲得した時に学校で校内放送があり拍手が起きた出来事、近所のひとまでテレビの前に集まった「東洋の魔女」、家族と沿道に陣取り男子マラソンを観戦してアベベや円谷幸吉が目の前を通った残像、そして極めつけは閉会式をスタジアムで観たこと。「外国のひとをあんなに見たのは初めてだった。いつか外国に行く日が来るのだろうか」と子供心に想ったという。また伯母は学校の校外学習として当時はマイナースポーツだった男子サッカーを観戦。後に日本サッカーのドンになる川淵三郎のゴールシーンを見ている。
こうした記憶の伝承と1998年長野冬季オリンピックに心動かされた経験が加わり、筆者は東京で再び夏季オリンピックが開催されることを強く願い始めた。
東京オリンピック招致を望んだ理由は他にもある。それは若いひとたちに早い段階でビッグプロジェクトにかかわり、世界へ羽ばたくきっかけにする機会が必要だと考えたから。とかく昨今の若いひとは「内向き志向」と言われ、留学を志すひとも減っていると聞く。一方で芸術、文化、テクノロジーなど様々な分野に才能のある若いひとは沢山いる。ならば日本に国際的なプロジェクトを持ってきて、そこに若いひとをどんどん押し出し、失敗しながらも大事業を成し遂げる面白さを知り、世界で活躍する端緒をつかんでもらえばいい・・・そう思いめぐらしたのだ。事実東京がオリンピック招致に乗り出した際に当時の石原愼太郎都知事は「若い連中に松明を立ててやらないといけない」と発言している。石原愼太郎は若き日に浅利慶太と一緒に日生劇場のこけら落とし公演シリーズの企画を任され、識見や知己を大きく拡げた。そうした経験を踏まえた言葉だろう。
加えたローコストによる運営、移動や物品運搬の手段として自動運転の活用、主要施設の維持に再生可能エネルギーが使われることなどが実現すれば、日本のマネジメントや技術力を実践で示す大きなチャンスになり、21世紀後半を見据えた世界との競争でアピールできる。そして五輪を機会に東京を拠点に活動するハイタレントもしくは辣腕ビジネスマンの外国人が少数でも出現したら東京、日本の成長につながると想像した。
失望、裏切り、幻滅の8年間
しかし、筆者に多大な影響を与えた形の母は東京都が2016年大会招致に名乗りを上げた時から招致反対を主張した。「ああいう思いは2度とできない」「プロが参加した時点でオリンピックは変質した。1964年大会の頃とは別物。だから仮に東京に来ても同じ感動は味わえない」とけんもほろろ。2020年大会の招致が決まっても「成功しない」「《復興五輪》なんて罰が当たる」などと牽制球を連発し、筆者と口論になる一幕まであった。
程なく母の見方の正しさは次々とあらゆる形で裏付けられた。都知事の度重なる交代、国立競技場を巡るドタバタ、エンブレム、招致過程に関する疑惑・・・いちいち個々の事案の細目には触れないが、その度に筆者の気持ちは痛んだ。若いひとが躍動するどころか、老年の邪気がいやらしく渦巻くオリンピックに堕ちてしまった。しかも2020年の感染症の流行で開催自体が不透明になり、結局1年延期が決まったが、以降も現在まで人事などの不手際が相次ぎ、開催を巡って人々の考え方がほぼ真っ二つに割れるおよそオリンピズムとは相いれない状況に陥っている。
しばしば「商業主義」の弊害を指摘する向きがあるが本来「商業主義」は悪い話ではない。経費は切り詰め、儲かることをやり、たくさんの収益に結び付けて業界や社会に還元する。民間のイヴェントなら当たり前の話。ところが東京2020は経費がたくさんで収益は減るばかり。観客を入れられないなら各方面と交渉して有料配信をやれば少しは埋められるのにそれすらできない。これは「商業主義」ではなく単なる放漫経営である。
1998年長野オリンピック開会式の面白さ
思い返せばリアルタイムで知っている長野オリンピックの際は招致費用があまりに高額となり、使途の不透明さも指弾された。だがエンブレムやマスコットはそれなりに愛されたし、浅利慶太統括演出の開会式は約四半世紀を経てひもとくと一種の先見性を感じる。
前半から聖火までは御柱祭、力士・横綱の土俵入り、「蝶々夫人」と2010年代のインバウンドブームを予期したか、外国人が心ときめく「ニッポン」イメイジをこれでもかと見せる。締め括りは一転して普遍的メッセイジを宿すインターナショナルな素材であるベートーヴェンの第九。
しかも小澤征爾、オーケストラ、ソリストは別のホールで演奏し、スタジアムと五大陸を衛星回線によって繋ぐ、リモートアンサンブル。オーケストラのメンバーはキュッヒル(コンサートマスター)、藤原浜雄、堀正文、工藤重典、宮本文昭、シュミードル、シュルツ、ツェペリッツ、ファースと超豪華。あとはブルーインパルスが虹を描いて終わり。
ショウ要素、思想、品格を兼ね備えた内容で開会式にふさわしい。それに引き換え、東京2020は開会式直前に当事者の人間性が疑われる事態で混迷している体たらく。物事の成立過程の裏工作や汚い要素が取りざたされるならともかく、「これで」と公になったもの、ひとがことごとく崩れる。どこまで大会を愚弄すれば気が済むのか。この8年間をある意味象徴する状況にもはやあきれている。
傷を癒すのは日本代表選手の活躍
大会の看板はボロボロながら何とか開催までこぎ着けたが、選手とりわけ日本代表にとっては厳しい状況。ホームグラウンドで絶対有利のはずが、感染症の影響、延期による調整の難しさはもとより、結果を出さなければ「無理やり開催したのにこのざまか」と批判を浴び、競技スポーツの社会的地位すら危うくなりかねない。それを見越してか山下泰裕JOC会長は「メダルの目標の意義は無くなった。選手が各々のベストを出して無事に競技を終えることが1番」、競泳の平井伯昌ヘッドコーチは「金メダルはあまり取れないと覚悟している」と予防線を張る。
だが「結果を出して黙らせる」がスポーツの世界。困難を乗り越えた心技体の強さを発揮して、オリンピックの舞台で日本代表が躍動する姿を楽しみにしている。もちろん東京に集う世界のアスリートのパフォーマンスにもエールを送るつもりだ。