プロ野球賢者の書(特別編)【浜田昭八の見つめた球界の賢者】②大沢啓二・下

本稿の狙い(と気張る内容ではないが)と上のリンク並びに全体の要約。


要約

1975年秋、かつての知将で当時は日本ハムファイターズ球団社長、三原脩から監督就任要請を受けた大沢啓二は、大社義規オーナーと面会後に受諾する。
三原球団社長と連携し、積極的なトレードなどで刷新を図った大沢だが、1976年シーズンに入ると故障者が続出。あまりの惨状に「ここは野戦病院か」と嘆いた。同年と翌77年はいずれも5位。
それでも大社義規オーナーの支持は揺るがず、意気に感じた大沢はチームの底上げに邁進、少しずつ好選手が揃い始める。
優勝への切り札はエース高橋直樹と交換にカープから獲得した江夏豊。
大沢は展開次第で準備する必要のあるリリーフエースの江夏に「時差出勤」の特例を認め、江夏も大沢の信頼に応えた。
加えてソレイタを中心とする強力打線が力を発揮、監督就任6年目の1981年についにリーグ優勝を果たす。
3年後に監督を退くと大沢は球団常務の肩書でフロント入り、シーズン席の営業から事実上の監督選びまで担った。そして1993年~1994年に再び監督を務め、「伊良部くらげ」などの話術で注目を集めた。
退任後はTBS系「サンデーモーニング」のスポーツコーナーのコメンテーターをはじめ幅広く活躍、2006年に惜しまれつつ世を去った。

ファイターズを変えた3投手:村上雅則/高橋一三/江夏豊

1976年に球団社長の三原脩の誘いを受け、日本ハムファイターズの監督となった大沢啓二(1932-2010)。
三原球団社長と協力して「駒沢の暴れん坊」の残影を振り払い、チーム改革に邁進するが、戦いぶりは歯がゆいもの。しかも、薄い選手層と当人たちの鍛錬不足がたたり、故障者が続出の大沢いわく「野戦病院」状態に陥る。
結局最初の2シーズンはいずれも5位。取り組みの成果はなかなか表に現れなかった。
そこで大沢は実績十分の3投手をトレードで獲得してチームの足場固めを図る。
攻撃野球を好むイメイジの大沢だが、浜田昭八『監督たちの戦い 決定版・上』(日経ビジネス人文庫;2001年)によると・・・

立教大時代から、よく口にしていたのは「打線(またはバッティング)は省線の切符」。その心は「通用一日限り」である。大沢の表現は省線から国電、山手線と変わった。しかし、打撃ほどあてにならないものはない。勝つには投手を中心とした守りが決め手、という考えは変わっていない。

前掲書pp.239

まず日本人大リーガー第1号の村上雅則が1976年に加入。
中継ぎで7シーズン活躍し、投手陣の下支え役を担った。
1977年61登板、1978年57登板の働きを大沢は「先発の15勝に匹敵する」と評価している。「その割には昇給しなかった」と村上は苦笑したそうだが、チーム内で地道な貢献への認識を拡げる先導役になった。実際、1978年・1979年は通年3位に食い込み、「Aクラス」の響きが負け慣れた選手の意識を少しずつ刺激していく。

続いてやはり1976年に張本勲とのトレードでジャイアンツから移った高橋一三。かつてV9のかかる試合でタイガースを完封した左腕は、この頃腰痛に苦しんでいた。ファイターズ入り後も振るわず、1979年オフには大沢のもとに引退の相談に訪れている。大沢は「もう1年がんばれ、緩い球を生かせ」と激励。2年後の1981年に復活して14勝、当時のパ・リーグ前後期制のプレーオフの優秀投手賞も獲得、優勝に貢献した。
往時のジャイアンツの一員としての矜持を失わず、「フォア・ザ・チーム」に徹する、模範的選手と言えた。

2人に加えて「ボンバー」古屋英夫など野手の戦力も整い始めたファイターズは、大沢監督5年目の1980年に最後まで優勝を争う躍進ぶり。
いよいよ優勝へと歩むために、大沢が得意のトレード術でカープから当時のファイターズのエース高橋直樹を交換要員に獲得したのが、江夏豊である。

奇しくも5年早くファイターズ入りしていた高橋一三とは、かつてジャイアンツ、タイガースの「左のエース」を張った間柄。満員の観衆の見つめるなか、再三投げ合った2人にとって当時のパ・リーグの「風景」は違和感を禁じ得なかったようだ。
『監督たちの戦い』はこう記す。

巨人-阪神戦でしのぎを削った高橋一三と江夏豊が、81年から3年間、日本ハムでチームメイトになった。空席の多いスタンドを見上げて「寂しいなあ」と話し合ったことがあった。そんな中で緊張感を失わず戦うには、大変な集中力が求められた。

浜田昭八『監督たちの戦い 決定版・下』pp.217(日経ビジネス人文庫;2001年)

先発起用がメインの高橋一三に対して、リリーフの江夏は毎試合ベンチ入りするうえ、展開によって出番の有無も分からない。
しかも現在の9回1イニングセーブシチュエーション限定のクローザーと異なり、江夏は大概7回からの登板。ホームなら1点ビハインドの状況で起用することもあった。そこで大沢は江夏の負担を考慮して「特別扱い」を認めた。

リリーフエースの出番は遅い。V9巨人の宮田征典は「8時半の男」と呼ばれたが、試合のテンポが遅くなってからは、どのリリーフエースも「9時半の男」になっていた。午後3時の球場集合から出番までの6時間余り、どうやって緊張を持続し、体調を整えるかが大きな問題だった。
大沢は江夏に、”時差出勤”の特例を認めた。1時間遅い球場入りOK、5回まではベンチに座らなくてもいい。マッサージでも精神統一でも、自分なりの準備をすればいい。ベンチで戦況を見て、7回にブルペンへ。そして、逃げ切りの場面で登場する。全試合にベンチ入りするリリーフエースを疲れさせないために、そうするのが合理的と大沢は考えた。

前掲書pp.218-pp.219

1981年の江夏はシーズン序盤こそもたついたが次第に復調、45登板で25セーブをマークしてMVPを獲得。
布陣の厚みが増したファイターズは前期4位、後期優勝。
前期優勝ロッテとのプレーオフは、第1戦に高橋一三-江夏のリレーが決まり1-0で勝利、第3戦はシーズン15勝無敗と覚醒した間柴茂有が好投するなどファイターズの勝負強さが光り、3勝1敗1分けで制し、念願のリーグ優勝に輝いた。

ところで先述のように大沢は江夏獲得のため、エース高橋直樹の放出に踏み切っている。エースをトレード要員に立てるのはただでさえ容易ならぬ話だが、大沢と高橋直樹の関係がトレード前にはギクシャクしていたことが背後に横たわり、厄介な事態を招いた。

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