プロ野球賢者の書(特別編)【浜田昭八の見つめた球界の賢者】③近藤貞雄
本稿の主眼(と気張る内容ではないが)は下記リンクの通り。
[要約]
2023年12月1日のデイリースポーツにこんなコラムが載った。
上記コラムに登場する近藤貞雄(1925~2006)の最大の功績は、中日ドラゴンズコーチ時代の1960年代に投手分業制を推し進めたこと。
野球殿堂博物館の顕彰レリーフにも明記されている。
近藤が最初に目をつけたのは、引退後タレント・俳優に転じたあの板東英二(1940~)。
高校時代、夏の甲子園で大活躍しながらプロ入りしてカラを破れずにいた彼を救援投手の中心に据え、「王(貞治)キラー」として目立たせた。
先発完投が当たり前、「救援(中継ぎ)=先発組の落ちこぼれ」の時代。
球団の無理解、先発にこだわる投手たちの意向といった「カベ」に阻まれつつ、その後も近藤はコーチや監督に就いた各球団で分業制を構築したチーム作りに取り組む。
またキャンプから投げ込み過剰を抑え、その時間は筋力トレーニングに充てる、実戦形式の練習を早い時期に行うなど「精神派」的鍛練に代わるやり方を探究した。
また近藤は、野球が「敵性スポーツ」と白眼視された戦時中の1943年にプロ入り(西鉄)した人間として、
「負けても、お客さんが《面白かった》と言って帰れるようにしなければならないのではないか」
「見せるスポーツのライヴァルが増えた。プロ野球が昔のままえらそうにしていていいはずがない」
と考えた。
そこで監督時代は得意の弁舌による「スーパーカー・トリオ」「アメフト野球」など、メディア受けする言葉を旗印に様々なアイデアを繰り出し、「見せる野球」の体現に挑んだ。
全ては光らなかったが、決して戦力に恵まれない横浜大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)、ファイターズにファンの目を引きつけた。
戦いの場を退いて以降は「首筋のシワを隠すのだ」とハイネックをステキに着こなし、晩年まで硬軟自在の評論活動を行った。
「ふてほど」で話題の「元中日」が投手分業制の先兵
TBS系ドラマ「不適切にもほどがある」で名前があがって話題を呼んでいる板東英二(1940~)。
今年44歳の筆者の場合、元プロ野球選手なのは知っていたが、当然ながらタレント(例えば TBS系「世界ふしぎ発見!」の解答者)もしくは俳優の記憶のみ。
元々板東英二は徳島商業時代、3年の夏の甲子園(1958年)で三振の山を築いた戦後高校野球界が生んだ最初のスター。
赫々たる実績をひっさげ1959年に中日ドラゴンズに入団したが、高校時代の登板過多の影響もあり、伸び悩む日々を送る。
そんな板東の様子に目をつけたのが投手コーチの近藤貞雄だった。
浜田昭八『監督たちの戦い・上』(日経ビジネス人文庫)によれば、近藤が板東を救援投手に仕立てた経緯は以下の通り。
”出たがり屋”板東英二が、投手分業制を確立する上で、大きな役割を演じた。1959年に中日の一軍投手コーチになった近藤は、かねて考えていた投手の役割分担を実行に移そうとした。先発、中継ぎ、ワンポイント、抑えと、投手の適性に応じて役割を決めておく。試合の成り行きに合わせて投手をつなぐという、今では当たり前の起用法である。
当時は「完投してこそ一人前」という考えが、まだ主流を占めていた。投手も救援組に回されるのを嫌がった。だが板東は違った。「いつも、出たくて仕方ないという様子だった。彼がいたから、いつかは構想を実現したいと思った」と近藤。60年には入団2年目の板東を、大事な場面での中継ぎ、抑えで意識的に使った。
板東の「特性」を見定めた近藤の目論見は的中する。
64年に中日コーチに復帰、65年の松山キャンプから、本格的に分業制をスタートさせた。先発組と救援組とでは、キャンプから練習方法を違えた。予想通り、OBたちは先行きを危ぶみ、投手も不安げだった。だが開幕すると、板東ら救援陣が活躍して、不安を吹き飛ばした。前年の中日は投手陣が崩れて最下位に落ちたが、この年は2位になった。翌年からは分業制を、さらに進めた。板東は66年、67年に60、61登板したが、先発は各1試合だけ。締めくくり役の「交代完了」がリーグ最多の40、35試合もあった。セーブが記録されなかった時代、65年に巨人の宮田征典が救援で驚異的な活躍をしたため、同時期の板東の”出たがり屋”ぶりは目立たなかった。しかし、近藤継投を光らせ、分業制確立のきっかけを作った功績は、記憶されていいだろう。
板東の活躍は、肘の故障により長くは続かなかった。しかし、既に一本足打法を身につけ、ホームランを量産中だったプロ入り同期の王貞治(1940~)を対戦打率2割6厘に抑え、球史に名を刻んだ。
近藤はこう回想する。
その後も近藤はコーチ、監督として分業制を推し進めた。名ストッパーが、その手で次々と生み出された。中日の星野仙一、鈴木孝政、牛島和彦、大洋の斎藤昭夫・・・・・・。「抑え役は星野のように、闘志満々で向かっていくタイプがいい。だが、板東のようにニコニコ動じない人間、牛島のような昼あんどんタイプも味があっていい」と言った。
ただ、球界に新しいシステムを確立するのは容易ではない。
1960年代はまだ先発投手の地位が高く、救援投手の年俸は低かった。
従って救援で活躍し、チーム内の立場が固まると先発を志向する投手が多く、例えばロッテコーチ時代には救援の中心に目論んだ木樽正明(1947~)が先発組に回り、分業構想が狂ったという。
「ボール、バットの質がよくなり、マシンで打撃練習もたっぷりできるようになっていた。分業制も球団にも認めてもらい、もっと早く救援組に報いてやるべきだった」。(中略)近藤は複雑な思いにひたった。
コーチ・監督における人間関係の難しさ
『監督たちの戦い』の著者、浜田昭八は近藤が投手分業制推進に舵を切った背景に権藤博(1938~;2019年野球殿堂入り)の存在を挙げる。
監督として1998年にベイスターズを日本一に導いたことで名高い権藤は、現役時代ドラゴンズのエースで1960年代初頭、一本足打法確立前の王貞治をきりきり舞いさせた。
1961年と62年の2シーズンで130試合登板、65勝を挙げる大活躍だったが、登板過多の反動で次第に成績は低下。結局肩痛に見舞われて野手転向まで試みるが成功せず、実働数年で終わった。
15年は働き、200勝も夢ではなかった投手(権藤)が、実質的にわずか2年で燃え尽きた。本人は「人が10年かかるものを5年で稼いだ」と納得顔だったが、酷使した首脳陣の責任は免れない。近藤は投手コーチとして、権藤の2年連続30勝にも、低迷時代にも、投手再転向にもかかわってきた。能弁な近藤だが、この話になると、とたんに口が重くなる。
(中略)「あのときは、ヘッドコーチが石本秀一さんでね・・・・・・」とポツリ。当時の投手コーチとしての微妙な立場がうかがえる。
石本は近藤が1943年に西鉄入りしたときの監督。(中略)中日での投手起用に、どれだけ権限があったのか。責任回避と見られるのを気遣い、近藤はその辺りをクリアにしない。
近藤は65年に「投手分業制」を唱え、投球数にこだわるようになった。その背景にこの権藤の「太く短く」終わった投手人生があった。権藤は5年で稼いだことを誇りにしたが、今では「細く長く」を目指す投手が、はるかにたくさん稼いでいる。近藤もあれ以降は、投手に「長く」と仕向けてきた。権藤に対する罪滅ぼしの意味もあったのか。
組織における先輩後輩、複雑な上下関係が横たわる状況の難しさは部活でも、プロ球団でも、そしてサラリーマンでも変わらない。
近藤は後にコーチとして力をつけて以降も、また監督に就いてもこの問題に向き合うことになる。
権限委譲と言うが、あのとき自分はどこまで任されているか。後年、逆に委譲する立場になったとき、相手を信頼して任せただろうか。投手起用を巡る内部的トラブルが話題になるたびに、近藤は1974年のペナントレース大詰めでの「神宮の激論」を思い出す。
監督ならだれでも、目の前の試合を取りたがる。まして、この年のような競り合いになると、主力投手を次々とつぎ込もうとする。与那嶺も例外でなかった。投手を預かる近藤がブレーキ役だった。「ウォーリー」「コンちゃん」と呼び合う息の合ったコンビに、小さな亀裂が見え始めた。
「ウォーリーは酒もタバコもたしなまず、思い詰めて野球に没頭するところがあった。星野の救援も9回の1イニングだけと、何度も確認したことなのに・・・・・・」と、近藤は苦笑いした。与那嶺にすれば、それを承知のスクランブル起用。勝負どころで、取り決めを頑固に守ろうとする近藤の姿勢が理解できなかった。
「ボクは監督の意向を聞いてプランを立て、最後は監督に笑ってもらうように運んだ」と近藤。だが”監督もどき”の投手コーチを、監督はどう見たのか。のちに監督になってから、強いコーチを抱えたことのない近藤には、理解できないことだった。
長いコーチ経験を経て、1981年にドラゴンズ監督に就任。
キャンプで全体練習は短くし、近年よく見られる紅白戦を早く時期から行うやり方にした。そして「守りの野球」一辺倒の傾向に抗い、「攻撃野球」を掲げる。これが実り、翌82年に近藤の監督歴唯一のリーグ優勝を果たした。
他方、かつての投手コーチ時代に継投を光らせた星野仙一(1947~2018)の衰えとの付き合いに悩み、結局近藤はやむなく星野を引退に追いやる。
2人の関係は近藤の逝去まで氷解しなかった。
なお、近藤は二軍投手コーチだった権藤博を一軍投手コーチに配置転換。牛島和彦の救援転向を後押しした。
言葉のチカラで日陰のチームに光を当てる
近藤は1983年限りでドラゴンズ監督を退いた後、1985年~1986年に横浜大洋ホエールズ、1989年~1991年にファイターズの監督を務めた。
新聞社がバックのドラゴンズと異なり、ともに当時は地味なチームで懐事情も厳しかった。
そこで近藤は得意の弁舌を駆使し、ファンとメディアを引きつけようと考える。
選手は注目されてこそ張り合いがあるし、うまくもなる。ここは得意の弁舌でマスコミを引きつけるしかない。そんな状況の中で口にしたキャッチフレーズに「スーパーカー・トリオ」があった。
「センスあふれる街ヨコハマにふさわしい、スマートな魅力を売り込みたかった。長距離砲は少ないので、あの3人のスピードを前面に押し出した攻撃をしようと思った」と、近藤はそのときの狙いを語った。あの3人とは屋敷要、高木豊、加藤博一である。
前年のチーム打率は12球団の中で最低。この3人の足を生かすのが、得点力アップの近道だった。ただ「機動攻撃」では平凡すぎる。そのころ話題の高級スポーツカーの名を借りた。
「クリーンアップ・トリオに代わって、スーパーカー・トリオを売り物にするチームがあってもいいじゃないか」
目論見は当たり、1985年は3人合わせて148盗塁。看板に偽りなしだった。だが、翌年になると他球団のマークの厳しさや故障に加え、球団の盗塁への評価が低いという話が伝わり、数は急減した。
さらに「アメフト野球」なる理論を提唱して話題となった。
近藤の主張はこうだ。
「頭脳、カネ、健康、この3つすべてに恵まれた人間なんて、そうザラにいるものではない。しかし、だれでもなにか1つは、人並みか、優れたものがあるはず。それをよりどころに、人は生きていける。会社ならカネを出す人、チエを出す人、力を出す人と、それぞれが恵まれているものを持ち寄ることで立派に成り立つ」と、近藤は「アメフト野球」を説明するのに、こう切り出した。
野球でも打、守、走の三拍子そろった選手は、チーム内に2、3人しかいない。「野球がプロスポーツ界を独走していたころなら、新人10人をふるいにかけ、1人残ればよかった。だが、サッカー、ゴルフ、大相撲、ギャンブル・スポーツ、格闘技などが花盛りの今、5人とって、5人とも育てなければならない時代になった」。
当然、三拍子そろった選手は少なくなる。85年に近藤が監督になった横浜大洋には、そんな選手がとりわけ少ないように思えた。「守備が不得意な田代富雄らに、打って、守って、走れる選手になれ、と言ってもムリだろう」と近藤は開き直った。そこで言い出したのが、オフェンスとディフェンスで別の選手を繰り出すアメリカンフットボールの方式だった。
「攻撃型のオーダーでスタートし、終盤はそっくり守備型チームに入れ替える」。勝ちゲームで守備固めの選手を送り出す用兵を、徹底してやろうというのだ。中日の監督時代から考え、それに沿った選手の獲得、育成をすべきだと主張した。
近藤のホエールズ監督は2年とも4位で終わるが、就任依頼時、1年目、2年目と球団代表は全て違う人物だった。監督が知恵を絞っても、球団フロントのバックアップ体制がこれだとアイデアも光らない。
「各球団の規模が大きくなった今では、フロント人事も、親会社の”傍系人事”であってはならない。本当に野球を理解し、野球界の事情を知った、経営センスのある人をフロントに据えるべきではないか。
現場は次代の選手を育てている。フロントも、親会社の決めた人事で動くのではなく、内部で人材を育てるべきではないか」。グラウンド以外のことでも神経を擦り減らした男の実感である。
「見せる野球」とは
近年の日本プロ野球では、大リーグの影響もあり、かつてのように「ノーアウトでライナー出た→送りバント」と定型的にはやらなくなってきた。
またダウンスイング主体が長かった打撃理論も、やはりアメリカの考え方が伝わり、多様になりつつある。
近藤は、バント主体が現在より遥かに強かった1980年代にその風潮に一石を投じた。
「やらせるべきときは、やらせる。でも、嫌いなんだなあ。初回からハンで押したように送りバントをしたり、主軸にまでやらせる。こざかしい野球が・・・・・・」と(バント)嫌いなことを否定しなかった。
隆盛をきわめたアマ野球を土台に、日本のプロ野球は成り立ってきた。だから送りバントが多いのだと、近藤は見ている。春夏の甲子園の高校野球、社会人野球のメーンイベントの都市対抗は、ともに後がないトーナメント大会だ。(中略)戦法は自然に、安全で確率の高いバントということになる。
長期ペナントレースを戦うプロ野球で、トーナメントを勝ち抜くのと同じ戦法をとる必要があるのか。プロはもっと「見せる」ことを考えてもいいのではないか。近藤は機会があるたびに「力をぶつけ合おう。指名打者制をとるパが、セと同じような野球をすることはない」と、持論を繰り広げた。
本稿の前回に取り上げた大沢啓二(1932~2010)は、この近藤の姿勢に共感して当時球団常務をしていたファイターズの監督に招聘した。
残念ながら豪放な「美学」に見合うだけの戦力に恵まれず、大きい成果はあがらなかった。
当時小学生の筆者が覚えているのは、殊勲打の大島康徳を出迎えた近藤監督が何とほおにキスする格好をして、大島が笑いながら逃げる姿くらい。
ただ、独特のサービス精神でファンの耳目を集める姿勢は、いまのパ・リーグ人気向上の起源かもしれず、新庄剛志・現ファイターズ監督に一脈通じると言えなくもない。
近藤は野球が敵性スポーツとして見られ、ストライクを「よし一本」と言い換えていた1943年にプロ入り。兵役を経て戦後1946年にプロ野球が復活するとジャイアンツで投手として活躍したが、オフに不運な交通事故により負傷。退団を余儀なくされ、ドラゴンズに移り数年間投げた。
波乱の現役時代、長いコーチ生活、様々な課題と向き合い続けた監督時代・・・多様な経験から「守りの野球」にくみせず、「見せる野球」を探ってきた。
監督のパフォーマンスが、メーンの出し物であってはならない。問題は野球の中身である。
どんな野球が「見せる野球」として歓迎されるのか。
近藤は「積極的に打ちまくる野球」と言った。V9巨人は守って、じっくりと勝機を待った。打ちまくろうとする野球より勝つ確率は高い。それは十分に承知している。だからといって、全球団が同じスタイルの野球をしたらどうなるのか。
近藤は自身の好みもあったが、中日、横浜大洋、日本ハムの3球団で、つとめて攻撃的野球を展開するように心掛けた。手ゴマの問題もあって、意図した通りの野球ができたわけではない。
だが、横浜大洋で「スーパーカー・トリオ」を売り出したように、常に「見せる」ことを意識し、マスコミを引きつける発言もしてきた。
「用具の質はよくなったし、人工芝、ドーム球場も多くなった。昔のままの野球でいいはずはないのだ」。
一方でこう釘を刺すことも忘れない。
「楽をして、プロの技を見せることはできない。技術を伴わない派手なプレーは、こっけいなだけ。やはり練習で苦しまないと・・・」と結んだ。
もうすぐプロ野球開幕。キャンプ、オープン戦で苦しんだ過程を潜り抜けた多様な才能が、その技を発揮する時間がもうすぐやってくる。
※文中敬称略
【参考文献】
浜田昭八『監督たちの戦い 決定版 上・下』(日経ビジネス人文庫;2001年)