コロナ日記 番外編:この日記を書くということ
ここまで12本書いてきて、今一度この日記を書いてきた経緯というか理由みたいなものを、これまた気ままに書いてみようと思う。
4月のはじめ。
コロナウイルスが猛威を振るい始めた時期に、『ペスト』という小説を取り、その内容と今の身の回りの変化を言葉にして残しておこうと思って始まったこの日記。
日記という割には毎日書いている訳ではないけど。
内容は基本的に主観。
自分が見たこと感じたことをペストの世界を照らし合わせながら考えていき、結果的に思ったことを書いている。
だから意見でも回答でもない問いで終わることもしばしば。根拠ある情報を基に開眼的な意見を投げることができれば、少なからず価値ある意見になるのだろうがそこまではできない。かと言って、何かを上手く皮肉ることもできないから、面白い意見を出すこともできない。
見返せば言ってることに矛盾が発生しているかも知れない。恥ずかしいことだが、それだけ人間は多面的であるなんて薄っぺらい言い訳で逃げる。
まぁそんな感じなので、あまり外向けの内容ではないと自分では考えている。
それでもnoteに書くことの意味とは?
今のところ以下3つ。
①少なからず誰かに見られる可能性があり、それなりにちゃんと文書を書こうとするため
②自分を考えていることを言語化する練習になるため
③思いの言語化によるストレス解消のため
最早①以外特にnoteである必要ないと思うが、オンラインに自分の言葉を残すという行為は、自分が何を思って、何をアウトプットしたいのかをかなり考える必要があると思っている。よって、引きづられるように②と③も精度を高めていくようになる。(実際に高められているかは不明)
だから、自分にとってかなりハードルが高いことで、今まではこんなに続いたことはなかった。
でも、今回はそのハードルを少し下げることができた。それは日記というスタンスでかつ自分のペースを守っているから。
phaさんの著作『しないことリスト』にこんなことが書いてある。
”僕が何か新しいことを始める時に気をつけていることが2つある。それは、「自分のやりたいことを自分のペースでやる」「外にゆるく開いておく」ということだ。”
読んだ当時は日記なんて書こうとは思ってなかったから特に意識していなかったが、今になってふとこの文章が頭に蘇ってきた。
本当は自分が書くことの意味なんて、究極的に自己満足に収束してしまうのだが、性格上見られることをあまりにも意識してしまうため、結局それっぽい意味みたいな物がひっついてしまう。
でも自分のペースを守り、外にゆるく開いておけば少なからず(本当に少なからずだが)リアクションが返ってくる。
その内容は別として、リアクションがあることは何だか嬉しいものだ。自分の言葉を読んでくれた人がいるんだと実感できる。
結構好きになってしまったこともあるので、このまま続けていこうと思う。
ただ、国のコロナに対する混乱と一緒で、何を持って終わりとするかは分かってない。
何を持って終息とするのか、また、別の形を持って続けていくのか。
のんびり考えていこうと思う。
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