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コロナ日記⑫:悪者/被害者

※このシリーズは『ペスト』(カミュ著)の内容が出てきますので、ネタバレが嫌な方は見ないでください。

5/2。土曜日。
GWのど真ん中。相変わらずとても晴れている。

昨日、緊急事態宣言の延長を4日に判断するという国の方針が総理から伝えられた。全体の空気感というのは少し言い過ぎかも知れないが、多くの人達は延長が妥当であると予想しているようだ。

都内の感染者数は、一度2桁を連日して記録したものの、昨日165人と再度3桁へ戻った。もはやデータを信じていいのか疑念を抱くほどの振れ幅であるが、まだ油断できないというのはおそらく多くの人が思っている共通認識であると想像できる。

ニュースでは今年のGWは例年比べて観光地の人口が減っていることを伝えていた。
正確な値までは覚えていないが、どの場所も例年に比べて60%とか70%とか減っていると記録されていた。緊急事態宣言化だからそんなに驚かないが、本当に外出しているが軒並み減っているかと思うとそうでもないと思う

今、人々はどんな気持ちで生活しているのだろう。


公園と日差し
昨日の夜、久しぶりに地元の友人達と会った。
オンラインではなくオフラインでだ。

発起人の友人は、事業をやっていて色々と厳しい時期だからということもあるのか、精神的にしんどい状況であったようだ。

お酒を買って、皆んなが好きな鶯谷へ行って、少し広い公園で酒を飲みながらボーッと特に内容の無い会話を楽しんだ。

あたりを見ると、若者から老人まで色んな年齢層の人達がいた。
皆んなそれぞれの時間を過ごしながら、時に大声で盛り上がる若者達もいた。確か時間は20:00過ぎ。

会おうと思えばインターネットを使用して簡単に会える。
しかし、場の共有感みたいなものは直接会ってこその感覚なんだろう。
そして、きっとそれは大切なものなのだろう。
久々に会う友人達を話してそう思った。

ソードアートオンラインのようなフルダイブ型の仮想世界だったらまた違うのかも知れない。と、自粛期間中に一気見したアニメの話が頭を横切る。

しかし、夜中ばかり行動していると徐々に気が病んでくる。
日を浴びることが人間にとってどれだけ大事かは、日を浴びない生活をしているととても実感できるものだ。

だから今日は日中に外に出てみた。ここ最近で一番暑い日だ。
夏が近いことを実感するようなこんな日に、久々に自転車を走らせて日を浴びに出掛けた。

外に出ると思ったより人が多かった。皆んなマスクをしているけど、服は薄着になり中には半袖半ズボンの人もいた。

大きな公園に行くと、家族連れやカップルが日差しの下で日光浴をしたり遊んだりしている様子であった。子供ははしゃぎながら駆け回り、お父さんは遊び相手をしているよう。

今年のGWは軒並み人が少なくなったというあのニュースとは異なる、休みの日の、普通の風景がそこにあった。

上は薄いシャツ1枚であったが気付いたら汗をかいていた。
本当に暑い日なのだがなぜか少し安心した。
こんな時でも夏はちゃんとやってくるんだと。


村八分
昨日、県の発表によりウイルスに感染した人がその身元を特定されるというニュースがあった。

細かいところの真意は不明だが、感染者が個人情報の開示をしないよう保健所に申告したのにも関わらず、県が無断で個人情報を公表したとのこと。
勤め先の会社は、その方が出勤していないにも関わらず風評被害を受けたとニュースでは報じられていた。

少し前、話を真意は不明だが、外出自粛が言われる前か直後かに、Twitterで地元へ帰省した人の話を読んだ。

その話によれば、感染していないにも関わらず、帰ってきたことを町の人に知られ、家族共に酷く中傷されたとのこと。

ウイルスの存在は脅威的である。
怖いのは皆んな一緒だろうし、感染したくないという気持ちは、多かれ少なかれ皆んな持っていると思う。だから防衛する気持ちは自然なのだろうが、果たしてそこでは何が悪となるのか?

感染することは悪なのか。

最近よく会社で言われる。
「体調が悪くなったらすぐに言って。」
「体温が37.5度を超えるなら休んで。」
優しい言葉に聞こえるその裏には、こっちに迷惑をかけるなというメッセージが強くこもっていると想像してしまう。

もし感染してしまったら、
「お前は意識が甘い」「なぜもっと注意しなかった」と弾糾されるのか。
周りの人達は、まるで醜い何かでもあるかのように見てくるのか。

自分が感染したその時、果たして周りの目に耐えられるであろうか。


解決法はない。けど分かろうとする。
もし、今日自分が見た公園の景色を、別の人が見たらどうだろうか。
酷く批判する人もいるだろう。

「こんな時期に外に出るなんて周りへの迷惑を考えないのか。」
「皆んな我慢しているのに。」
「感染したらどうするんだ。」

批判の声が上がってもおかしくはない。
でも、こんな時期だからこそ、人の気持ちを分かろうとすることはやめたくない。

ペストの終盤、書き手は「なるべく感染者の気持ちに寄り添って書いている」と告白している。
書き手はなるべく客観的に物事を記録していこうと意識する中で、被害者である市民を批判しようとはしなかった。市民はペストの被害者なのだから。

また作中では、医師リウーと友人タルーが、一時的にペストと闘うという荷を降ろして、海へ泳ぎに行くシーンが描かれている。
常に前線でペストと戦っていた彼らにとって、市民が一人もいないその海での時間は、本当に一時的な開放の時間であった。帰ってきた彼らは、またペストとの戦いという荷を背中に背負い日常に帰って行った。

確かに、感染すれば周りの色々な人に迷惑をかけてしまう。感染しないためにはなるべく外に出ず、人との接触も避けた方がいい。もし、自分の不注意が原因で感染してしまったら、それは非難の対象となりうるだろう。

でも、もし自分の周りに感染した人が出てきたとしても、
その人の行いを非難するのでもなく、その人を除け者として見るのでもなく、ただ単純にその人の体を心配し労れる人でいたい。

そして、この時期に外に出る人達を非難するのではなく、その人達になるべく寄り添った気持ちでいたい。こんなに我慢してたら外にも出たくなるし、大切な誰かにも会いたくなるよね。と。

自分は弱いから、外に出て友人達に会って話をしないとどんどん弱っていく。だから、外出する自分を擁護したいだけと言われたら正直そこまで。

正論は正論だ。たとえ同調圧力があったとしても、緊急事態宣言化で取るべき行動はあると思う。

ただ、正論で管理仕切れない人間の気持ちの部分を、個人の背景にあるエピソードを想像して分かろうと思うのは、あまりにも理想に走りすぎているのだろうか。

と、なんだか話が大きくなり過ぎたのでここら辺で。

とりあえず、機嫌が悪い時にマスクしないで咳した人を見たらイラッとしないようにするところから始めよう。

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