「革命の話をしよう。」
多崎礼著 『レーエンデ国物語』(講談社、2023)
本屋大賞にノミネートされたというので、せっかくなので記事を書こうと思います。
これね、全5巻の予定でいま3巻まで出ているの。
正直1巻を読んだときは、「はい??」ってなりましたよ。
ええ。
なんというか、この物語は5巻揃った上でじゃないと甲乙つけ難いんではないかと、強く思います。
物語は一様に、「革命の話をしよう。」ではじまっています。
これは革命の物語であり、革命の中で生きた人たちの痕跡を物語にしたものです。
この世界には歴史があり、歴史のある一点で、何かしらの革命が起きる。
そのとき、当事者はどうしていたのか。
それを解き明かしていくのがこの物語です。
第1巻の主人公は、外地からきたユリア・シュライヴァと、レーエンデ内地に住むトリスタン・ドゥ・エルウィンの物語です。
読みながらわたしは、ユリアよりもユリアの父ヘクトルの過去のほうが気になりましたけどね。
このレーエンデの地には「銀呪病」と呼ばれる奇病があって、これにかかると人も動物も、銀の鱗で体が覆われていき、いずれ塵となって消えてしまう、というものです。
この病のゆえに、レーエンデは周りを囲む帝国からの干渉を受けず、独立した地域として存在していました。
それを、ヘクトルが銀呪病の治療法を見つけるために、外地との交易路をひいて自然の要塞のようなレーエンデを解放したい、と願ったことから事態は動き出します。
わたしが読みながら強烈な違和感を感じたのが、この銀呪病の存在と、ヘクトルの「レーエンデの解放」への情熱でした。
なんでそんなに「解放」したがるんだろう。
しかも外部の人間が。
内部の人が「解放したい」「病を根絶するために外部の知識を得たい」と思って蜂起するならともかく。
しかも銀呪病というのはこの世界の宗教に根深く絡んでいて、銀呪の嵐のなかで神の御子が生まれる、その御子を手中におさめれば世界を手にできる、というもので。
そんなわけでユリアやトリスタンは追われることになります。
なんだろうなあ。
この世界の「宗教」が本当に「正しい」というか、宗教が政治を牛耳っている点で「正しい」在り方ではないのですが、宗教の教えと実際の宗教の作用(神の御子の存在)に齟齬がないのが、不思議な感じがしました。
しかも、今後この「神の御子」の存在によって、人々は苦しみを抱えていくことになるので、なんというか、神の御子の存在自体が呪いのようです。
この世界の宗教は、「救済」じゃないんだろうか、首を傾げてしまいます。
物語の枠組みの方に戻りますが、物語のプロローグとエピローグは(かなり噛み砕いているとはいえ)歴史書の一部のような描かれ方をしています。
有名な革命家がいた。
その人はこんなことをした。
そして正式な記録には残っていないけれど、こういうことがあったという伝承がある。
そういう物語の閉じ方をします。
いま読んでいた物語が、「現在進行形」の物語ではなく、「過去形」の物語であることに、違和感というか、座りの悪さを感じるのです。
そういう意味では、これは「時代小説」なんだと思います。
司馬遼太郎とか、歴史上のある出来事、ある人を取り上げて物語にするじゃないですか。
結末は変わるわけないのに。
「レーエンデ」にも似たような空気をかんじます。
唯一違うのは、これは想像上の世界の歴史なので、読者が歴史を知らないということです。
歴史を知らずに時代小説を読むと、きっと変な気持ちになるでしょうね。
そういうわけで、これは全巻揃ってからでないと、良し悪しというか、好き嫌いを判断できないなと思います。
いま3巻まで出ていて、3巻まで来ればこの世界にある程度親しんでいるので、まだしも歴史の一部分として楽しめるようになってきますけれど、
続きが楽しみなシリーズです。