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【感想】貝類展 @国立科学博物館

【展覧会詳細】

会名:貝類展 人はなぜ貝に魅せられるのか
会場:国立科学博物館
会期:2024年11月26日(火)〜2025年3月2(日)


● まえがき


貝が好きになったきっかけは、祖母がくれたお土産だった。
大小様々な貝がミチミチに詰まった小瓶。

母は専業主婦だし、年の近い姉もいるが、幼いときは基本的に一人で遊んでいた。

目の高さからビー玉を離し、床に置いたビー玉に当てる「目落とし」という遊びを好んでおり、最終的に百発百中の命中率を誇っていたが、いかんせん一人で遊んでいたので誇れる相手がいない。
この遊びを教えてくれた祖母を脳内で生成しては、カツンとビー玉が当たって弾けるたびに、バーチャル祖母に向かって自慢していた。

そんな、ビー玉しか遊び相手がいなかった自分に貝の友だちができた。
ありがとうばあちゃん、いつもおれに友だちをくれて。

どこか海の街のお土産売り場で買ったのだろうか。
コルクのフタを取ってビンをひっくり返せば、次から次へと貝が出てくる。

貝を背の順に並べてはニンマリしたり、
形や色でグループ分けしては、グループ同士で戦わせたり。
一人遊びなのに争いごとを起こしたがる。
なぜ平和でいられないんだ、幼い自分よ。
それとも平和に遊べないから一人で遊ぶしかなかったのか?
今となっては確かめようがない。

特にお気に入りだったのが、
指先に乗る小さなタカラガイと、
手のひらに乗せて収まりがよい大きなイモガイ。

つるつるとした光沢のあるタカラガイの質感と、
白地に茶色の斑点が美しいイモガイの模様。

タカラガイは紫と黄色があり、数もたくさんあったので、紫軍と黄色軍に分けて戦わせていた。
だがしかし、どんなに接戦を繰り広げても、最終的に巨大なイモガイが空からやってきて全てを無に帰す。

みんながおままごととかセーラームーンごっことかして遊んでいる間に、ひとりで『貝・ウォー』ごっこしている幼稚園児。我ながらイヤすぎるな。

でもそんな幼少期を過ごしたおかげで貝が好きになった。ありがとうばあちゃん。見る専門で、食べられないけれど。

貝類展の監修者紹介では、監修者の方々が展覧会のテーマでもある「人はなぜ貝に魅せられるのか」について、それぞれの思いを言葉にしている。

齋藤寛さんは子どもの頃、近所の路地の植木棚に風雨にさらされて白っぽくなったサザエやアワビの貝殻を見たことを覚えており、貝が人を魅了する理由について以下のように語っている。

「私の経験を基にするのは根拠薄弱ですが、そんなありふれた貝の、しかも色彩の乏しい貝殻を覚えているということを考えると、ひとを魅了する最大の要因はその形ではないかと思えてきます。」

人はなぜ貝に魅せられるのか。
自分はなぜ貝に惹かれるのか。
私がその答えに辿り着ける日は来るのだろうか。


■ 殻と捕食者


貝の殻が発達した理由のひとつとして挙げられているのが、「捕食者から身を守るため」というもの。

硬い殻を噛み砕くのは大変だし、飲み込もうとすればトゲが喉に引っ掛かって痛い。


ホネガイのトゲトゲはかなり痛そう


身を守るために殻をつくり、食べられないように進化させてきた。
だがしかし敵も負けてはいない。
その硬い殻さえも食い破ってくる。
貝にとって、それは想定内のはずだ。
ならばもっと硬い殻を、もっと鋭いトゲを。
そうやって進化を繰り返した。

だがしかし、身を守るために進化した殻が、まさか人間という天敵をつくることになるとは思いもしなかっただろう。

「捕える」理由として「食べるため」ではなく、「きれいだから」「興味深いから」なんて基準があるだなんて、貝からしたら想定の範囲外すぎる。

だがしかし、生殖は経ていないが、「殻を残す」ことも「生き残る」と見做すならば、人間は敵ではなく味方ともいえる。

コレクションとして殻をきれいに、しかも大量に保存してくれるのだから。


天然でこの色らしい。キレイすぎる
コレクターはなぜもれなく全員マメなのか
こんな感じで会場には色んな人の色んなコレクションが展示してあります。垂涎だぜ!


■ カタツムリとナメクジ、メガネと新八


貝的にはどうなんだろ?
中身じゃなくて殻を本体かのように扱われることについて、不満はないんだろうか?

私はその昔、パソコンのモニターが今のようにスリムではなくズングリムックリしていたころ、モニターが本体だと思っていた。
モニターとは別に筐体があり、そっちが本体だと知ったときにはたいそう驚いたものだ。

エアコンもそうだ。
室外機の存在を知ったときには「え、お前がエアコン?」と思った。室外機からしたら心外だろう。

貝的にも、殻はあくまで殻であって、本体はその中身だ。殻ばかりがフィーチャーされるのは面白くないはず。

ちなみにカタツムリとナメクジに明瞭な線引きはないらしい。


カタツムリの仲間で貝殻が著しく退化、あるいは失われたものをナメクジと呼ぶとのこと


カタツムリは「かわいい」の代表だが、ナメクジがそのポジションに立つことはない。ナメクジをかわいがるのは喜三太だけだ。

カタツムリが「かわいい」と持て囃される一方、
ナメクジは「気持ち悪い」と一蹴されるこの世の中。
両者の違いは殻の有無だけだというのに。

ということは、我々はカタツムリの本体ではなく、殻を「かわいい」と認識しているのだ。

殻を「カタツムリ」と呼んでいるに等しい。
メガネに向かって「新八」と呼びかけるのと同じ理論だ。
新ぱっつぁんが「メガネが本体じゃねぇよ」とツッコんでいたように、カタツムリだってツッコミたいだろう。
ぼくたち殻が本体じゃないよ、ナメクジ部分が本体だよ。

ちなみに貝のいわゆる「本体」を引っこ抜くことを「肉抜き」というらしい。世界共通語でNiku-nuki。


イェア、ニィクヌゥキ


■ イモガイと毒


美しいものには毒がある


イモガイの食事について初めて知ったのは高校生の頃。
毒に関する本を読んでいたら、イモガイの捕食シーンが紹介されていたのだ。

イモガイといえば、祖母の小瓶に入っていた貝の中でも一際大きくてお気に入りだったステキな貝だ。
そんなイモガイにまさか毒があるとは。
そして捕食シーンがこんなにもグロいとは。

手前にあるステキな茶色の貝たちがイモガイ


地球館の1階でイモガイの食性について紹介したコーナーがあるというので行ってみた。


ありました


毒針をブスっと刺して、ちゅるんといただく


相変わらずグロい!
イモガイにこんな性質があるなんて露知らず、きれいだきれいだと愛でていた幼い自分の無垢さが尊い。

そして今でも海辺の街で、ステキな小瓶に入ったイモガイを見ては
「あらキレイ、思い出にひとつ買おうかしら」
なんて会話が繰り広げられているのだ。

キレイな貝ですよねお姉さん!
でもそいつ、毒でブシュッと相手を刺して、中身を引きずり出して食うんですぜ!!


でもこのギャップがいいよね


■ 巻貝とバベルの塔


アダンソンオキナエビス

↑この貝を見て、ブリューゲルのバベルの塔を思い出した。

意図的であれ無意識であれ、自然界に存在する造形は人間の創作物に多大な影響を与える。

敬愛するガウディも海をイメージした個人邸「カサ・バトリョ」を建てており、室内には貝を思わせる意匠があちこちに施されている。

ガウディは自身の創作について「自分は何も生み出していない、自然の中から"発見"するだけ」と言っていたが、私が貝を愛でるように、その昔同じように貝を愛した人たちがいて、その人たちが作ったモノの中に、私は貝を見つけ出し、貝を通じて作品そのものを愛するようになる。

大変だ、世界平和への道がここにある気がする。


● あとがき


貝といえば螺鈿や真珠も好きだ。
特に螺鈿。なんてったってキレイ。

そして貝といえばフラクタルだ。
自己相似。模様は続くよどこまでも。

螺鈿細工にフラクタル、
カタツムリを愛でてナメクジを厭う人間の心理、
イモガイの毒にブリューゲルのバベルの塔、
そしてガウディのカサ・バトリョ。

自分が愛するあらゆるモノたちの中に貝がある。
貝に惹かれる理由を探すと、貝に限らず「己が好きなもの」が浮き彫りになってくる。

だがしかし改めて「どうして貝に惹かれるのか?」と問われても、言い淀んでしまう。

結局のところ、わからないのだ。

私にとって貝は螺鈿で、フラクタルで、毒で、バベルの塔で。
貝に惹かれた偉人たちが生み出した絵画が、建築が、もはや貝の手を離れたものさえも私に貝の魅力を訴えてくるから、どこからどこまでが「貝の魅力」なのかわからない。

私は貝という個体を愛しているのではなく、貝を通じて、その背後にある物語を愛しているのかもしれない。

超絶スペクタクル。

一度ハマったら抜け出せない。
これがウワサの「沼」ってやつか。

この沼で「人はなぜ貝に魅せられるのか」の理由を探し続ける。

それがおれの潮干狩り。


うちの牡蠣ちゃんもよろしく


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