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高校時代の先輩後輩でもある阪急ブレーブスのドラ1投手ふたりが野村IDで再生した話。

弱小阪神の中継ぎエース

 亡きノムさんとの思い出を誰に聞こうか。
 担当編集からそう問われて真っ先に浮かんだのが、まだ弱かった野村阪神を中継ぎの柱として支えた、彼だった。
 ロス五輪での金メダル獲得に貢献し、87年のドラフト1位でプロ入りを果たした社会人出身のサイドスロー。小学生時分は『阪急ブレーブスこども会』の会員でもあったぼくにとって、その人、伊藤敦規は、投球フォームをマネしてよく壁当てをしていたぐらいかつて憧れた存在でもあった。

「野村さんとの最初の思い出はオリックス時代。いまじゃ考えられないけど、神戸であったヤクルトとのオープン戦で、僕が完投したことがあってね。その日の試合後に、監督の土井(正三)さんから言われたんです。『斎藤雅樹よりええ球放るピッチャーおるやないか、ってノムさんが言うとったぞ』って。それはいまでもすごい覚えてますね。あの頃からちゃんと見てくれてたんだなって」

 プロ入り当初は、大先輩・山田久志のようなエースになるのが目標だった。
 だが、8勝を挙げてオールスターにも出場した92年以降は成績も低迷。トレードで移籍した横浜では、左膝の故障にも見舞われ、わずか2年で戦力外。一時は「引退」も考えた。

「阪神に入るまでは、先発として長いイニングを投げたいっていうこだわりが捨てきれずにいたんですけど、戦力外になったことで、いい意味での開きなおりができたんでしょうね。その頃には痛めた膝もすっかりよくなっていたから、お世話になった横浜のトレーナーさんには冗談半分でよく言われましたよ。『ウチでしっかり治療できてよかったな』って(笑)」

 ラストチャンスのつもりで受験した入団テストで見事合格を勝ちとった伊藤は、吉田義男監督のもとで勝ちパターンの中継ぎ投手として再生。移籍後の2シーズンで110試合に投げて、防御率2点台と抜群の安定感を披露した。
 そして、98年オフ。新たに監督に就いたノムさんもまた、その実績とタフネスを買って、投手陣のキーマンに指名。伊藤自身もそれに応え、投手最年長のセットアッパー(※1)として、大車輪の活躍をみせることになっていく。

「野村さん自身はあまり口数の多い人ではないので、まわりの記者さんやスポーツ紙の紙面を通じて知ることのほうが多かったですけど、『大事にされてる』という実感は当時からありました。あの頃は先発陣が手薄で、早い回からマウンドに上がることも多かったから、そのぶん準備は大変でしたし、『おまえが試合を潰したら、遠山・葛西の仕事がなくなるんやぞ』(※2)とも言われてましたけど、裏を返せば、それだけ信頼されてるってことでもあったんでね(笑)」

70試合登板は“ケガの功名”

 そんな伊藤が、「忘れられない」と語るのが、巨人戦が行われた99年9月12日の甲子園。試合前の練習中に起きたアクシデントでの1コマだ。ベンチ前で他の投手陣とともにバント練習をしていた伊藤に、大きく逸れた外野ノックの返球が直撃。右手親指を骨折した彼は、そのまま残り試合を棒に振ることになったのだ。

「あのときはグラウンドに背を向けて立っていたから、『危ない!』って声で咄嗟に頭をかばったんです。そしたら、そこにボールが直撃して、親指がヘンな方向に曲がってた。で、ひとまず医務室で処置をしてもらっていたら、グラウンドから野村さんの声が聞こえてきてね。ノックを打っていたコーチの福本(豊)さんや悪送球をした張本人である高波(文一)らに向かって、『アツの替わりはおらんのやぞ!』って珍しく激怒されていたんです。その言葉を聞いたときは、イチ選手としてやっぱりうれしかったですよね。指はめちゃくちゃ痛かったけど(笑)」

 ただ、結果的にこのときの骨折は、文字どおりの〝ケガの功名〟となる。ノムさんのアドバイスでシンカーを新たに覚えた伊藤は、翌年さらなる進化を遂げ、いまも史上最年長記録として残る37歳での70試合登板を達成する。

「就任後すぐから始まったいわゆる“野村の教え”(※3)は、僕自身にとっても本当にタメになったし、面白くてね。それが試合のなかでも実践できるようになったのが、00年のシーズンでもあったんです。なにしろ、僕のシンカーは見逃せば絶対にボールになる球。それを使ってこちらの思惑どおりに打ちとる快感を、プロ13年目にして初めて覚えたわけですよ」

 1963年生まれの伊藤は、フワッとした抽象的な言葉と精神論が幅を利かせるなかで、野球に打ちこんできた世代。それだけに、あらゆることに「根拠」を求める論理的な“野村ID”は、出会いそのものが衝撃だった。考えたこともなかった「なぜ」を、次々に言語化してくれるノムさん独自のミーティング。そこで得た見識こそが、「現在の自分のベースになっている」とも彼は言う。

「初回がいきなり“人生論”から始まったときは、本当に度肝を抜かれましたけど、ミーティングは毎回楽しくてね。あの3年間で野球の奥深さをあらためて知った気がします。『野球は(現役を)辞めてからが勝負やぞ』っていう野村さんの言葉は、コーチになってからもいつも心の隅にありましたし、まずは選手のことをよく観るっていうのも、現役時代の自分が身をもって教わったことですしね」

 ちなみに、ノムさんがもつ“観察眼”の鋭さを、伊藤が如実に感じたのは、就任早々。それまで敵軍の将だったノムさんに、無意識に出ていた投球時の“クセ”を指摘されたときのことだ。

「来られたばかりの野村さんから、『アツ、おまえは首振ったら、スライダーやぞ』って言われたんですね。自分ではまったく意識したことはなかったんですけど、それまでずっとそうだった、と。でも言われてみると、確かに思い当たる節はある。『あ、ヤクルト戦で古田(敦也)から左中間に放りこまれたあのときって、そうだったのか』ってね。あと、練習時のスパイクが禁止されてる甲子園の外野で僕がこっそり履いたままやってたときも、ボソッと『今日も履いとんのか』って(笑)。そんなところまで観てるのか、ってことはふだんからよくありましたね」

台湾経由の“異色”ドラ1

 一方、“再生工場”(※4)と呼ばれたヤクルト時代に“野村の教え”の薫陶を受けたのが、伊藤とは中京高(現・中京大中京)の2年後輩に当たる野中徹博だ。
 “やまびこ打線”の池田高が誇るエース水野雄仁と人気を二分する甲子園のスターだった野中は、伊藤と同じ阪急に4年も早く入団を果たした高卒のドラ1。
 だが、在籍6年で1軍登板はわずかに7試合という不完全燃焼のまま一度は現役を引退。その後、3年のブランクを経て、台湾へと渡り、ふたたびNPBと返り咲いた異色の経歴の持ち主だ。

「オリックスでクビになったときは、『プロでなにひとつ成し遂げられなかった』っていう悔しさと不甲斐なさしかなくてね。辞めて1年間ぐらいは野球を観るのも嫌だったんです。だから、台湾に行ったときは『また野球をやれる』ってことがただただうれしくて。もっとも自分のなかでは“3ヵ年計画”だと勝手に思ってたから、まさか1年で声がかかるとは思ってもみなかったですけどね」

 台湾球界でいきなり15勝を挙げた野中は翌年、中日へと移籍。かの“10・8決戦”でも、8・9回を任されるなど貴重な中継ぎのひとりとして活躍した。
 そして、3年で戦力外通告を受けた96年オフ。ヤクルトの入団テストを自ら受験。ノムさん最後のリーグ優勝&日本一(※5)の原動力として“再生”する。

「中日を戦力外になったとき、実は他球団からもオファーはもらっていたんです。でも、あの頃はちょうど“ID野球”の絶頂期。僕のなかでは、野村さんの下で野球がやってみたい、古田に球を受けてもらいたいって気持ちが強くてね。で、以前ヤクルトにいた当時の中日のトレーニングコーチにお願いをして、テストを受けさせてもらうことにしたんです」

 念願叶って初めてふれた“ID野球”は、「衝撃」と評した阪神時代の伊藤と同様、野中にとっても「ある種の革命」だった。
 ミーティングでノムさんが板書する“定義”の確かさを、その後の実戦で、身をもって実感する日々。自分のような“外様”の中継ぎ投手を大事にしてくれる姿勢も、彼にはありがたかった。

「野村さんが実践されていたのは“頭で考える”野球。なので、たとえホームランを打たれてた直後でも、怒るポイントは『なぜ直前にフォアボールを出したのか』だったりすることもザラでした。横浜戦で僕が、回またぎで3発食らったときも、とくになにも言われませんでしたしね(笑)」

 そんな野中にも、前出の伊藤と似たような思い出がある。44試合に投げて、防御率2.28をマークした翌年。開幕早々、総崩れとなった先発陣に対して、ノムさんはこう檄を飛ばしたという。

「みんなのまえで『このままじゃ野中が潰れるだろ!』って言ってくれてね。ただまぁ、伊藤さんと違うのは、そこが僕の限界だったということ。その後、本当に潰れてしまって、『もっとしっかり鍛えておけばよかった』というのはすごく思いましたね。二度目の引退時はまだ33歳。もう少しやりたかったなって」

“野村イズム”で指導者に

 98年限りで現役を引退した野中は、社会人野球、マスターズリーグなどを経て、現在は島根・出雲西高の野球部監督として、未来ある後進の育成に汗を流す。

「発展途上の高校生には、精度はまだ求められない。でもだからこそ、『なぜそうしたのか』をチーム全体が共有できるような指導を心がけるようにはしています。低めの変化球になぜ手が出てしまうのか。そのときのピッチャー心理はどうなのか。そういうヤクルトで教わった一つひとつが、監督としての自分にも活きている。そういう意味でも野村さんは、僕にとってもプロでの大事な“恩人”のひとりだと思っています」

 同じ高校から、同じチームへとプロ入りを果たしたふたりが、時を違えて“野村の教え”で再生するという奇跡。野球界に多大なる足跡を残した亡きノムさんの“偉業”は、いまなお数多の野球人の心に息づいている──。

伊藤野中

【プロフィール】
伊藤敦規◎いとうあつのり
1963年、愛知県生まれ。中京高から福井工大、熊谷組を経て、87年のドラフト1位で阪急に入団。大学在学中に出場したロス五輪では2勝を挙げて金メダル獲得にも貢献した。97年に加入した阪神では5年連続50試合登板を達成するなど投手陣を牽引。引退後の05年からは、15年間にわたってトレーニングコーチも務めた。
生涯成績▼483試合/56勝51敗11S/1025回/579奪三振/防3.76

野中徹博◎のなかてつひろ
1965年、愛知県生まれ。中京高のエースとして甲子園に3度出場。83年のドラフト1位で阪急に入団する。自由契約となった89年オフに現役引退を表明して、一般企業に就職。台湾球界での活躍を経て、中日に加入し、NPB復帰を成し遂げた。97年5月27日の横浜戦で挙げた、13年越しのプロ初勝利でも大きな話題に。
生涯成績▼111試合/2勝5敗4S/143回/108奪三振/防4.15

※1……当時のチーム最年長は62年生まれで1学年上の生え抜き、和田豊。15年に51歳で亡くなった大豊泰昭と同学年の伊藤は、投手陣のまとめ役としても期待される存在だった。

※2……葛西稔が復調した00年シーズンは、前年カムバック賞の左腕・遠山奬志とのコンビで打者の右左で交互に登板するノムさん独自の“遠山・葛西スペシャル”が話題に。この〝勝利の連立方程式〟に重要な役割を果たしたのが、2番手として試合を立てなおす役割を任されることが多かった伊藤だった。

※3……ヤクルト時代はノムさん自らが、ホワイトボードに自ら板書することが多かった“野村の教え”も、こと阪神では「おまえらは弱すぎるから時間がないんや」と、ミーティングはあらかじめ用意された“部外秘”のコピーをもとに進められた。「2年目もアップデートされたものが配られて、それも後から回収されたけど、選手はみんなコピーを手元に置いていたと思う」とは伊藤の談。

※4……ダイエーからトレードで移籍した田畑一也、西武を自由契約となった辻発彦らが活躍した前年に続き、野中が加入した97年シーズンは、広島を自由契約となった小早川毅彦も加入。ノムさんの“ID”に直接ふれた小早川は、4月4日の対巨人開幕戦でエース・斎藤雅樹からいきなりの3打席連続本塁打。一躍“野村再生工場”の象徴となった。

※5……前年4位へと転落したこともあり、下馬評は「今年もBクラス」。だが、いざ開幕すると前出の小早川や新外国人のドゥエイン・ホージーらが当たり、首位を快走。終盤で追撃してきた横浜を9月に入って石井一久がノーヒットノーランで一蹴すると、続く日本シリーズでは自慢の“ID”で西武の機動力を徹底的に封じこめ、4勝1敗と完勝した。ノムさんにとっては、監督として5度目のリーグ優勝、3度目の日本一。結果的にはこれが生涯を通じて最後の栄冠となった。

『EX大衆』(双葉社) 20年4月号「さようならノムさん」特集掲載


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