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(落選作品)『パパは神様』

 アーメン、と放送にあわせて呟いた。その後に訪れる独特の静けさにも今は慣れた。教室にいる皆の顔は見えないけど、多分感情を読み取れない表情をしているはずだ。実際、私がそうだから。喜怒哀楽のどれにも当てはまらない時の顔。朝のお祈りが終わり、これからホームルームが始まる。

 私が通う高校はキリスト教系で、それに関連した行事があるのが特徴だ。生徒玄関を抜けてすぐの中庭には真っ白なマリア像がある。青葉が茂る季節に全校生徒が集まって祈りをささげる。マリア祭と呼ばれ、私には入学して間もない生徒たちを迎え入れるための儀式に見えた。雪が舞い始める頃になると、校内にはクリスマスムードが流れる。プレゼントを交換したりケーキを食べたりする、一般的なそれとはまた雰囲気が違う。全校生徒が体育館でキャンドルを手に、イエスの誕生を祝うクリスマス・プレーは幻想的な光景だ。ただ、こういう行事が際立って非日常的かというとそうでもない。私たちは、朝の祈りや讃美歌によって毎日のようにキリスト教に触れている。高校に入学したばかりの頃は、お祈りや歌がなかなか日常に馴染まなかった。私だけでなく、クラスの皆もそうだったのではないかと思う。それでも、やり続けていれば生活の一部になるから不思議だ。二年生になってからは、毎朝歌って祈るこの流れが当たり前のものになっている。お祈りはもう覚えてしまい、何も見なくても言える。

 ただ、神様が実在しているのかどうかは疑問だ。お祈りを諳んじ、宗教の授業を受けて聖書を読んだりするけどよく分からない。神様って何者なんだろう。そう考えるたび、私はその存在を否定してしまう。だって、祈ったって叶えてくれないから。神様が本当にいるのなら、私のパパは今も生きているはずだ。

 パパが亡くなったのは私が中学三年生の時だった。家で倒れて病院に運ばれ、すぐ手術室に入った。呆然とするママの横で、私はずっと目を閉じてお願いしていた。「神様、パパを助けてください」って。でもその願いは天に届かなかった。手術から何時間も経って、先生に呼ばれるまま病室に入った。ベッドで眠っているようだったパパの心臓は、もう動いていなかった。やけに明るい蛍光灯が照らすその顔は、嘘みたいに白かった。お医者さんからいろいろな説明を受けたけど、内容はほとんど覚えていない。薄っすら記憶にあるのは、当時急逝した芸能人と同じ死因と言われたことと、明日が来るのは当たり前ではないという実感だった。それからバタバタとお葬式やら何やら、パパを送り出す行事があった。季節は夏になったところだった。私はその時、亡くなった人の体には匂いを防ぐためにドライアイスを当てることを知った。

「何だか、悲しんでいる暇もないね」
 ママは忙しさに苦笑いを浮かべた。
「亜希ちゃん、ママを助けてあげてね」
 名前も知らないけど親戚だと言う人に声をかけられ、一応「はい」と返事をした。真っ黒い服の集団に白いセーラー服で混ざる自分の姿は、一人だけ不謹慎な感じがした。目の前で起きていることが現実だなんて信じられなくて、ふわふわした気分だった。それから時間はあっという間に過ぎ、受験があって私は高校生になった。初めて新しい制服を着た時、パパに見せたかったなと思って目に涙が溜まった。あれからもうすぐ二年が経つなんて。最近では悲しいと感じる回数も減った。パパがいないことを現実として理解している。乗り越えるってこういうことなんだろうか。

「次の時間、何だっけ?」
 前の席の久保ちゃんが振り向いた。洗濯したてみたいな良い香りがふわっと届く。むしっとする中に爽やかさが生まれた。私は目を凝らして、教室の前に貼ってあるカラフルな時間割を確認した。
「えっと……、宗教だね」
 今でこそ授業として受け入れているけど、これも最初は慣れなかった。何の信仰もない自分が宗教の勉強をしているのは不思議な気分だった。ロッカーから持ってきた聖書をパラパラとめくる。薄い紙に小さな文字がびっしり詰まっている。こんなに書いてあるのに、読んだことがあるのはほんの一部だ。チャイムが鳴ると先生が入ってきて、皆が席についた。号令がかかって授業が始まる。

「皆さんは、生き返りってあると思う?」
 先生は唐突に問いかけた。私はそれにどきりとする。そんなの、あったらどれだけ良いだろう。「あるわけないじゃん」「漫画の世界なら」などという声が周りから上がる。先生はそれらを笑ってやり過ごし、言葉を続けた。「イエスはね、復活したの」
 教室は「えー」というどよめきに包まれた。その反応に満足げにうなずいた先生は解説を始めた。滑らかに話す声が教室を包む。
「イエスが十字架にかけられて処刑された話は、前にもしたよね。実はその三日後、彼は再び弟子たちのところに姿を現したの」
 私はそれを黙って聞いていた。パパも復活したらいいのにと思いながら。いつしか教室は静かになっていて、皆が真剣なことが分かる。「何のために?」という久保ちゃんの素直な質問がいつもより響いて聞こえた。
「弟子たちに、何か言い残したことがあったのかもしれないね」
 先生の穏やかな声とともに私はパパを思った。私やママに何か伝えたいことはあるだろうか。ふと斜め上に目をやると、十字架にかけられたイエスのレリーフがあった。この高校には、これが全部の教室にある。何だか奇妙で、入学した当初はまじまじと観察することもあった。でも最近はそんなこともなく、今日久しぶりに見た気がした。こんな目にあった後、復活するなんて……。そんな「偉業」があったからこそ神様と呼ばれる存在になったのか? そもそも、私たちが普段思っている神様は、イエスのことで良いのかな?
「この復活を祝うお祭りがイースターってわけ。うさぎとか卵がモチーフね。キリスト教ではクリスマスより大切とされていて……」
 授業は次の話題に移っていたけど、私はぼんやりレリーフを見続けていた。

 普通の授業の後、放課後講習がある日はいつもより疲れる。帰る頃には頭が重い気がする。何の知識を詰め込んだか思い出すのも大変で、本末転倒な気がした。学校の前にあるバス停からたくさんの生徒が乗り込み、ほとんどの席が埋まってしまうのがいつもの光景だ。後から乗る人に申し訳なさを感じつつ、私は背もたれに深く寄り掛かった。夕方になっても気温が下がらないせいで、車内もむし暑い。色々な匂いが混ざり合っている。
「帰ったら今度は宿題か」
「ね。勉強漬けだよ」
 二人掛けの隣に座る久保ちゃんがげんなりした表情をした後、「でもさ」と少し笑った。私は「何?」と目線だけで尋ねる。
「宗教の授業は、ちょっとした息抜きになる」
「そう……かな。内容が難しい気がする」
 私は今日の授業を思い出し首を傾げた。確かに受験と関係のない教科の授業は少し気楽だ。でも、宗教は宗教で頭を使う。私は久保ちゃんのように息抜きとまでは思えなかった。
「別に全部分かろうとしなくて良いんじゃない? こういう考え方が世界にはあるってことを理解できればさ」
 大人びた口調の久保ちゃんに「なるほど」と納得する。信じるとかそういうことは抜きにして、学びとして捉えるということだろう。それは確かに、受験に関する勉強にはない良さがある気がする。こういうの、教養っていうんだっけ。バスが進むにつれて乗客は少なくなっていった。久保ちゃんも降りて話し相手がいなくなり、私はぼうっと窓の外を見ていた。自分がバスから降りるまでの、この帰りの時間がわりと好きだ。ゆっくり一日が終わりに向かう感じがする。最も、帰ってから宿題が待っているのでまだ先は長いけど。

 バス停から家までの道のりは十分くらい。入り組んだ住宅街は人通りが少なく、誰かに会うことはあまりない。しかし、今日は前方に歩く人がいる。私はそれを見つけた瞬間立ち止まってしまった。この後ろ姿は……。
「え、パパ? そんなわけないよね……」
 背格好がそっくりでつい言葉が出た。ありえないのにくぎ付けになる。そして、私は頭に今日の宗教の授業を思い出していた。「イエスはね、復活したの」という先生の声が蘇る。すると、その人が突然私の方に振り返った。「おお。亜希じゃねえか。久しぶり」
 大きな声が静かな住宅街に響く。私は正体が分かってすぐそちらに駆け寄った。
「秀明おじさん! 来てたの?」
 それはパパの双子の弟で私のおじさんだった。県外に住んでいて頻繁に会えないので、ここにいることに驚く。久しぶりに見るその顔は、やっぱりパパとそっくりだ。
「まとまった休みが取れたんだ。帰省がてら、あいつに線香を上げに行こうと思ってな」
「そうなんだ。びっくりしちゃった」
「今帰りか? 学校はどうだ?」
「えっとね、神様の勉強とかしてる」
「あ? 何だそりゃ」
 おじさんは笑った。間もなくして家に着き、私はドアを勢いよく開ける。ママの「おかえり」とおじさんの「どうも」が重なった。
「あら、秀明さん? びっくりした。どうぞ、上がって上がって」
「突然、連絡もなしにすみません。ちょっと線香だけと思って」
 私もおじさんと一緒に仏壇の部屋に入った。家のここだけが和室で、畳の独特な匂いがする。毎日入っているけど、その度に異空間だと感じる。おじさんは「そっちはどうだ?」と写真に向かって問いかけた。パパはずっと同じ顔で笑っているだけだ。

「ねえ、神様っていると思う?」
 私の質問におじさんは腕を組む。「お茶どうぞ」とママが言ったのでリビングに移動した。
「亜希はどうなんだ? 信じてんのか?」
「私は、いないと思う。だって、いるならあの時……、病院で祈った時パパを助けてくれたはずだから」
 おじさんとママは曖昧に笑って何も言わない。テーブルの麦茶がゆらゆらしていた。ガラスのコップがだんだん汗をかいていく。
「ま、専門的なことは分からんけどよ。神様とか祈りとか。ただ、あいつは寿命だったんだ。運命は決まってたってわけ」
 おじさんが沈黙を破る。私は「寿命」と小さく言葉を繰り返した。
「俺はそう思うことにしてるよ」
 しんみりとした声がリビングで宙に浮いた。ママがうなずいて目元を拭うのが見えた。私は頭にパパの顔や声、過ごした日々を思い浮かべた。その姿はもう、この世にはないんだ。パパの人生のうち、私はたった十五年しか一緒にいられなかった。それは決まっていたのかな。胸が締め付けられるように痛くて、顔が熱い。私、今ものすごく悲しい。視界がぼやける中でそう自覚して、ちょっと安心した。

 悲しみを乗り越えたなんて嘘だ。そんなのあるわけない。パパがいないことはいつになっても悲しいに決まっている。その感情と生きることに慣れただけだった。でも、悲しみを抱え続けることは悪いことじゃないと思えた。それが、自分を強くしてくれる気がするから。
「よっしゃ、三回忌はパーッとやろうぜ。うまいもんでも食ってさ」
「そうね。たくさんの人に集まってもらえたら良いな。きっとあの人も喜ぶわ」
 二人が明るく言った。私は涙が溜まった目を細める。リビングには和室から線香の香りが届いていた。リンを鳴らしたり線香を上げることは、学校でやる朝の祈りみたいなものかもしれないと思った。誰かを思って、心を静かに保つ儀式。心を強くしてくれる儀式。
 私は毎朝言っているフレーズを思い出す。天におられる私たちの父よ。
 パパも、天国からこっちを見守っているかな。これから私にとっての神様は、パパってことにしようかな。復活することはなくても、いつでも心の中で生きている。何か言いたいことがあったら、それは夢の中で聞くよ。実際に姿が見えたら、びっくりして怖くなっちゃうかもしれないし。
 コップの中の氷が溶けて、カランと音を立てた。いつしか線香の香りは空気に溶けて消えていて、ぬるい風が緑の匂いを運んできた。もうすぐ夏が始まる。パパの居場所が皆の心の中に変わって、三回目の夏だ。

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