救われたいという感情について

最近、「祈り」という言葉をTwitterで見かけて、
私に必要なものかをそっと確認しながら、そうでは無いな、と続きそうな思考を止めた。

救いを求めたくなることがある。
仲間に、職場に、会社に、制度に、或いは、人に。

会社もそこにあるのは多くの人であるはずなのに、まるでひとつのしそうであるかのように、様々なことを見て見ぬふりをされるのはいかがなものだろうか。

また、ある制度に関する怒りを、目の前の人間にぶつけてこられた場合、怒っている当人は人に対して怒りをぶつけている、という感覚はほとんどないであろうに(時に機械のような返事をするな、と言ってくる人もいるが)、怒鳴り散らされたり、言葉をぶつけられたがわは、そのぶつけられた感情の大きさを、声を、言葉を忘れられずにいるのは、どうしようもない事なのだろうか。それに苦しむ私たちの感情は??二度と人前に立ちたくないと思った時、ただ私たちは職を奪われることに怯え、何かを諦めてまたその場所に立たなくてはいけないのだろうか。

最近、人の怒りが何から沸くのかと疑問を持ったが、これまで強くぶつけられた怒りの多くは「その人の常識が無視されている」「理解と異なる」ことが原因だったかと思う。
怒りをこちらに向かわせないでくれる人の中にも、変化を望んでいる人は確かに一定数いるのだけれど、そういった人は、何かの制度やシステムを変更していくことは難しいことであると受け止めてくれているのでは無いかと思う。それこそ、諦めに近いため息も聞こえてきそうだが。

それでも、少数の怒りだけでは何かを変更することはとても難しい。また、怒りではポジティブな方向に誰かの頭を、企画を、気持ちを、動かしていくことは叶わない。誰かを傷つけるためだけの強いエネルギーは、人の心を動かすことはないからだ。

システムの変更は、その先に明るい未来が見えた時にのみ、人がそのために働き、構築し、完成させていくことでのみ達成される。多くの人が利用しているものやこと、または、多くの者が関わるものやことを変えていくには時間もかかる。

それでも時代は変わるし、中身も、事柄も、人も変わっていくからこそ、変わらずにいては成長も出来ない、という面も抱えているから難しい。ずっと変わらずに、というのはある種の希望であり、絶望でもあるのだろう。

私の救われたさはどこから来るものだろうか、と思うが、もうこれは「私の好きなように生きたい」ところから来たものなのでどうしようもない。
私の言う生きたいは働きたい、なので、たぶんいつか会社を出ることで解決するのだとは思うが、今は自分が生きていくためのお金もないのでわがままは言えない。

お金のことだけを考えて食事をするのも、服を我慢するのも、行きたいライブを我慢するのももうたくさんだ。

私だけのせい、なんて思うほどでもないが、私の好きだったバンド2組は今年度を持って活動を終了するらしい。
終わる時になって、もっとライブに行っておくんだった、なんて思うんだから、本当にどうしようもない。そもそも全てのライブに行けていたってその悲しみの大きさは計り知れないのに。

さて、タイトルの「救われたい」に話を戻そう。

たぶん私の思う「救われたい」は「苦しみたくない」だ。怒られたくもないし、怒りたくもない。
私のような怠けた人間が怒られずに生きるのも困難だとは思うが、ある程度人を怒らせずに生きられるのであればその方が良いと思うし、怒られてぐるぐるとそのことばかりを考える時間を続けていくのも疲れた。
私が怒ることなんて言うのも些細なことなので、人によっては私を短気だと評価する人もいるかもしれない。だとしたら私のような短気なものが怒らずに済むような世の中ならいいし、無意識に誰かを傷つけないよう、常に穏やかでいられるような世界であって欲しい、と願うのはやはりあまりにワガママであろうか。

最近、マンガを読みながら、誰かのために行動する人はきっとみな優しいのだろうな、と思うなどしていた。だが、誰かを守るために誰かを傷つけた時、そこには必ず復讐の連鎖が生まれるのは言うまでもない。
笑顔には笑顔が返ってくるし、怒りには怒りが返ってくるのだ。
必要なことは、本心で、真っ直ぐに向き合うこと。いつも正直であること。怒りそうになった時、すぐに声を出さず、相手を想像し、物事を冷静に判断した上でこちらの意見を述べること。

じぶんひとりだけが豊かに、幸せになることはきっと難しい。それは、その富や幸福は誰かから奪っている可能性があるから。誰かから怒りや憎しみをぶつけられることは免れない。

だから本当は、たとえば自分の見えている範囲内だけでも幸せであれるようにひとりひとりが願い、行動することはさして難しくないのかもしれない。そうすれば、共に生きるささやかな日々を生きていくことができるから。

とはいえ。自分は主人公じゃないから。姫でもなければ王子でも神でもない。
大きなことは言えないし、民を救うだけの技量もお金も頭も、勿論地位もない。一緒に働く優秀な仲間に十分な賃金さえ与えられない平民は、今日も「救われたい」と嘆いている。いつか、誰かを救えるように。

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