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許す許さないよりも、受け止められる人でありたい


このコロナ禍において、また一つ痛ましい事故が起きてしまった。

在宅ワーク中だった父親が、幼い子供を保育園に預け忘れて車内に放置してしまい、結果命が失われてしまった。

本当に辛くて悲しい事故だ。

けれど、この事故に対する世間のバッシングも、私にとっては恐怖と悲しみしかない。

中にはこの父親を「子殺しの殺人者だ!」と言う人も居る。

果たして、本当にそうなのだろうか。

我が家の主人も一時期在宅ワークに切り替わっていたが、やはり自宅での仕事は慣れないことも多く、普段以上に集中力が必要だと言っていた。

私自身も、長い休校期間中に曜日感覚がおかしくなることもあったし、分散登校が始まってからは、毎日のように「明日はどっちが午前登校!?」と確認していた。

これまでになかった非日常な生活が続いていた所為もあり、毎日飲んでいる薬を流れ作業のように流し込んで、少ししてから「あれ? 私今日の薬飲んだっけ?」なんていうこともあった。

人はそんなに万能な生き物ではない。

どれだけ注意を払っても、防げないミスが起こることもある。

私は、この事故の父親を擁護するつもりは全くない

これだけはまず断言しておく。

しかしその上で、彼の行いを責める権利も私には一切ないと思っている。責めて良いのは精々彼の家族や親族などだろう。

けれど、誰よりこの父親を責めているのは、他の誰でもない、父親自身であると私は思う。そうであって欲しいと思う。ならば周りが、それも何の繋がりもない赤の他人が、彼を「殺人だ!」と責め立てる必要が、どこにあるのだろう。

父親が世間から責め立てられて、このご家族はこの先どんな生活を送ることになるのか。少し想像してみて欲しい。穏やかな未来が待っていると思えるだろうか。


私の息子も事故に遭った際、命こそ助かったものの、車に跳ねられて負った傷によって大きく変わってしまった顔は、もうこの先も元に戻ることはない。

事故当初こそ、私は加害者に対して「許せない」という感情を持っていた。息子の顔を返して欲しいと、それしか考えられなかった。

けれど、どうあがいても息子の傷が消えることは無いんだと受け入れられたとき、気がついた。どんなに相手を責めて憎んで恨んでも、息子の怪我が治るわけじゃない。起きてしまった事故が、無かったことになるわけじゃないということに。

このご家族だってそうだ。

父親を責め立てて、その先に幸福なんてあるだろうか?

私は、そんなものは無いと思う。重苦しい感情がずっと鉛のように残るだけだ。そんな状態で、家族がうまく機能していくとも思えない。


なのに今は、家族でもなんでもない、顔も名前も知らない人たちが、よってたかって「この父親のしたことはありえない!」「人殺しだ!」と責め立てている。そうすることによって、遺族に救いを与えるかのように。

もう一度。この父親を擁護するつもりはないことを前提として言いたい。

事情や状況をよく知りもしない部外者からの批判なんて、大きなお世話でしかない。単なる不幸の上塗りだ。

少しの油断がこういう事故に繋がるのだということを改めて胸に刻み、自身の気持ちを引き締める。

部外者である私に出来ることは、そうして同じ悲しみを繰り返さないよう、日頃から意識づけることだけだ。


人は誰だってグレーだ。

真っ白な人も、真っ黒な人も居ない。

けれど今の世の中は、黒か白、どちらかでなければ気が済まない!と声を上げる人が増えているように思う。

どちらの声も受け止めて、自分の内で混ぜ合わせて自分だけのグレーに落とし込む。私は、そんな人間でありたい。

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