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「タモリ学」の果たした歴史的な役割に関する分析について

はじめに

 「タモリ学」とは、タモリが誕生してから現在までの、様々な発言やエピソードを読み解き、その特異性と魅力を語るものである。司会業で独自の業績をなしたタモリのことについては、今日広く知れ渡り多くのファンを獲得しているが、上京した1975年(昭和50年:当時30歳)にタモリを知る者は一部に限られ、知名度は有していなかった。タモリが世に受容されるようになるまでには、赤塚不二夫とゆかいな仲間たちの宴会グループ「面白グループ」の人脈と、赤塚不二夫の熱心なプロモートに依るところが大きい。

 1976年4月初のレギュラー番組「チャンネル泥棒!快感ギャグ番組!空飛ぶモンティ・パイソン」、同年10月には「オールナイトニッポン」のラジオパーソナリティーとしてレギュラー番組がスタートする。1981年「今夜は最高!」、1982年(昭和57年:当時37歳)に長寿番組となった「笑っていいとも」「タモリ俱楽部」が、相次いでスタートする。1986年に「ミュージックステーション」の2代目の司会者となり(初代は関口宏)1992年「ボキャブラ天国」の放送が開始する頃には、国民的人気を得ていく。

 タモリは坂関連で2冊の本を執筆しているが、タモリが自伝のようなものを執筆したことはない。「タモリ学」の多くは、タモリとは一体何者だったのだろうという他者の好奇心から始まり、タモリウォッチャーと呼ばれる人々によってまとめられた。テレビでのタモリの発言を文字に起こしたり、雑誌のインタビュー記事の抜粋したり、関係者にインタビューする場合もある。「タモリ学」は「笑っていいとも」の放送終了が発表された2013年頃から活動が活発化し、多くの書籍が出版された。その内容は実に男性的だ。

 本稿では、女性目線で「タモリ学」の果たした歴史的役割に着目し、「タモリ学」を取り入れる意義について、文化、知恵、倫理観に対して今まで以上に敬意を払うことができるようになるという点を示す。


1.料理

 タモリは終戦記念日の1週間後(1945年8月22日)に誕生した。タモリ少年は両親とは暮らしておらず、姉と共に祖父母と暮らしていた。祖父は満州鉄道の駅長、父も満鉄職員で黒田藩老中の家系。森田家は昭和13年~14年頃、戦争の情勢が悪化する前に帰国しており、森田家にとって満州国での思い出は良いものばかりだった。タモリは対談で、帰国後の森田家の人々の話しを語っている《日本がいかにつまらんかとういことをしゃべっているのですよ。近所付き合いは窮屈だし、土地も狭い、食べ物がまずい、人間がせこい》と。逆説的に言えば、森田家は食べ物においしいを求め、大らかな家風だったと言える。

 祖母は小学生になった孫タモリに料理を教えた。「これからの男は料理ぐらいできゃどうしようもない」と台所に立たせ料理する姿を見せていた。

 我が家でもタモリレシピは日々お世話になっている。2008年にタモリ倶楽部で披露された『生姜焼き』では、夏~秋にかけての新生姜を使うとおいしいこと、玉ねぎ1/4をレンチンして甘くする、お肉200gにしっかり小麦粉を振る、油を使わないことなど、下ごしらえ次第で料理の出来が左右されることをタモリから学んだ。2001年に笑っていいともで披露された『鶏むね肉ときゅうりのごまドレがけ』では、鍋いっぱいのお湯が沸騰したら鍋に肉を入れ、火を消して蓋をして、お湯が冷めるまでお肉を放置する。肉が固くならない工夫で、これは低温調理との出会いだった。

 現在インターネットで「タモリレシピ」と検索すれば120万件ヒットする。タモリが発信したレシピ数は多くないが、簡単でおいしいレシピは多くの人から愛されているのだろう。これは「タモリ学」では語られないが各家庭に浸透しているタモリの知恵と言える。

【料理に関してのタモリの名言】
料理はリラックスして食べるものだから。緊張させるラーメン屋のオヤジとか、緊張させる頑固な寿司屋のオヤジとか、ああいうの大嫌いなんだよ。


2.音楽

 タモリは高校時代ブラスバンド部に所属し、チューバを演奏していた。森田家は満州国の影響か音楽的刺激の多い家だった。高校3年のときに後輩宅で聴いたアート・ブレーイキーのアルバム「モーニン」がカッコよすぎて以後ジャズにのめり込み、トランペットを吹くようになる。

 私が最初にタモリを認識したのは、土曜日深夜に放送されていた『今夜は最高!』(1981年~1989年)という音楽バラエティー番組。タモリは演者として、ジャスを演奏し、歌い、踊り、漫談、アメリカ映画を思わせるコントもしていた。毎週多彩なゲストが出演して番組を盛り上げる。タモリは歌も演技も上手く、トランペットを吹く姿も艶っぽい。タモリがお笑いビック3と呼ばれるまで、私はタモリのことを音楽家だと思っていた。スパイダース・クレージーキャッツ・ドリフターズなどお笑いを合わせ持つマルチなバンドマンが多くいたからだ。

 『今夜は最高!』には、まだ無名だった久本雅美や柴田理恵がレギュラー出演している。これはワハハ本舗主宰の喰始(たべはじめ)が赤塚不二夫とゆかいな仲間たちの宴会グループに参加していたからだろう。喰始は「ゲバゲバ90分」で放送作家デビューし、「欽ちゃんの仮装大賞」の番組構成に携わってきた。今から40年前、劇団東京ヴォードヴィルショーで脚本を書いていたが、所属していた劇団員を引き連れてワハハ本舗を立ち上げた。2023年「赤塚歌舞伎」という赤塚漫画のキャラをリスペクトした公演もしている。

 久本雅美や柴田理恵に限らずだか、タモリ自身が赤塚不二夫に道を作ってもらったように、関わった人たちを幸せに導くためにこれまで行動をしてきたようにも見える。「ボキャブラ天国」出演者を「笑っていいとも」にレギュラー起用したり、タモリが愛するミュージシャン小沢健二の曲を先日の「ブラタモリ」エンディング起用したこともそう感じる。

 タモリが現在所有している大量のJAZZ盤は、2026年完成予定の北海道東川町「KAGUデザインミュージアム」に1万枚寄贈されることになり、希少な名盤の散逸を防ぎ、地方創生にも貢献している。地方創生といえば、「ブラタモリ」だ。もう本人の意思とは関係ない程の影響を及ぼしている。

 『今夜は最高!』の終了を機にパフォーマーとしてのタモリは消滅し、司会のみに舵をきっていく。以後タモリが日本テレビの番組に出演したのは「日テレ開局55周年の特別番組」のみだ。


3.不自由からの解放

 タモリは幼少期に右目を失明しており、義眼を入れている。義眼は眼球の一部を模した大きなコンタクトレンズのようなもので、眼球の上にのせて使用する。「今夜は最高!」の時代は義眼のままテレビに映ることもあった。

 テレビドラマで人間じゃない設定の場合、瞳に金色や赤のコンタクト入れる演出が当時あった。その影響か幼少期の私には義眼のタモリが普通の人じゃないような印象を持った。「目は口程に物を言う」ということわざがあるが、目は心の窓だ。その窓が欠けている。想像して欲しい。すれ違う人の中で訝しい顔をした人がいなかったか。毎朝鏡の前に立つ姿を。本人が爆笑していても、傍目には笑っているように見えない可能性はある。自分のあずかり知らぬところで、全く違う印象を持たれることは不自由だ。タモリが幼少期から物事を相対的に見つめるクセは、世間との間の不自由さから解放され自由になるために必要なことだったように感じる。

 哲学者エピクロスはパトス(激情・情熱・情念)から遠ざかることで精神的な快楽を追求し、そこから生まれる生活を幸福と考えた。

 「タモリ学」で語られるタモリの名言の中には、パトスから遠ざかる表現が多い。タモリは早稲田大学第二文学部哲学科に入学したが、おもしろくなかったとインタビューに答えているので、習うような哲学は大学に入学する前にもう得ていたともとれる。大学時代は音楽と友達と好奇心を持って、楽しく過ごすことの方がよっぽど面白かったことは「タモリ学」関連書籍から感じることができる。


おわりに

 タモリの業績は司会業という枠にとどまらず、料理、音楽、芸能人の発掘や育成、地学、歴史、地方創生に至るまで多岐に渡る。時に愛を持って、時に大笑いをしながら、それぞれの個性を引き出し輝かせてきたタモリ。

 『わからない』という世界の面白さを個人的に追究するばかりにぜずに、多くの人を巻き込みながら独自の世界を形成した。『タモリ学』に触れることは、それらを省察する機会になりえると考える。

【引用参考文献】
📚タモリと戦後ニッポン 近藤正高著(2015)
📚タモリ論 樋口 毅宏(2013)
📚タモリ伝 片田 直久(2014)
📚タモリめし 大場聖史(2014)


【謝辞】
第8054回タモリスト文学大賞😎アカデミック部門の課題である「タモリ学」の果たした歴史的な役割に関する分析についてに参加したものです。

さよならなんて云えないよ
タモさんの好きな曲


懐かしの大魔神子も

#タモリスト文学大賞
#アカデミック部門



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