私の病気の履歴書②
病気の履歴書に番号を振ってしまいましたが②を書き始めて、そんなにたくさんあるわけじゃあるまいし、なんでこんなタイトルにしてしまったんだろうか・・・と思いましたがとりあえずいってみよう、病気の履歴書②!!
この症状は中学2年の時に発症しました。
吹奏楽部だった私は、コンクールがあったその日の夜に家で突然の腹痛に襲われました。その腹痛は今までに経験したことのない感じの痛みでした。
お腹を下して痛くてトイレに行くときの痛みじゃない。
胃痛の痛みとも違うし生理痛とも違う、痛い場所も違う。
それ以外の何かの痛みでしたが、痛みの強さのせいで時間がたつうちに私は吐き始めました。それも片頭痛同様に吐き続けます。
私は結局14歳から21歳くらいまでの思春期、その病気に苦しめられました。
発症後は原因不明の病気のため、どの病院へ行っても過敏性腸症候群と言われました。
症候群というだけあって❝腸が過敏になって何かわからないけど炎症などの症状を起こしているのかな?❞という曖昧さでした。
でもその曖昧さでありながら、痛みの頻度と痛みのレベルが高い。
まるで生理のように月に一度という頻度でその痛みが襲ってきました。
しかもいつも決まって夜なんです。不思議なものでいつも23時以降で毎回夜間の緊急窓口へ母の運転する車で向かいました。本当に、昼間に痛くなることは一度もなかったんです。
いつも病院についてからボルタレンの点滴とブスコパンの点滴を打っていました。それから吐き気止めの筋肉注射をして、薬が効くまで座っていられないくらいの痛みでひたすら痛みに耐える→吐くを繰り返しているので、私は眠気を感じている暇もありませんでしたが、付き添いの母は、痛みに苦しみ、何度も吐く娘を病院の簡易的な丸椅子に座り、見守る。しかも月一のペースで・・・。どんな気持ちだったんだろうと今は思います。
大きな病院なので、やはり色々と検査してみましょうということにもなりました。いろいろな検査をしたのでもうあまり覚えていませんが、胃カメラがまだ楽勝にできる検査ではない時代だったので、苦しかったのは覚えています。
それから鼻から管を通して診るという造影剤の検査をしました。
これは死ぬほど苦しかったです。台の上で苦しくて苦しくて足をバタバタさせて嗚咽と涙。叫び苦しんだのを覚えています。
待合室で待つ母は涙を流しながら待っていたと言っていました。代われるものなら代わってあげたいと・・・。
その苦しい検査の結果病名がわかりました。
「上腸間膜動脈症候群」です。
まぁ結局症候群です。やせ型の私は体内の脂肪が少なく腸の周りの脂肪も少なかったそうです。
医師の説明では何かの拍子で血管が十二指腸を挟む、そのことで痛みと嘔吐を伴う。治療法はなく、体内脂肪を増やしていくことが治療になるとのことでした。
下手に腹を開けていじると、癒着したりして、何かその後病気をした時に見つかる病気も見つからなくなってしまうリスクがあるからお腹を開けることは勧めないという説明で結局対処療法しかありませんでした。
私自身その当時の体重は覚えていませんが、やせ型ではありました。
でも周りの友達でもその程度のやせ形はいましたし、余計な脂肪分がない体系ではありました。急激なダイエットをして激やせをしたりするとこの症状が出たりするようですが、そんなこともなく自分としては普通に食べているつもりでした。ごはんも残さず「体系の割によく食べるね」と言われることの方が多かったです。
やはり女性らしく体内の脂肪がだんだんついていく中で改善されたのか、だんだん痛くなる回数が減っていき、21歳の時を最後に痛くなることもなくなりました。
中学3年の修学旅行の日の夜、痛くなってしまいボルタレンの座薬で何とかなりました。
高校の入学式の前日に痛くなりました。
通院していた病院のすぐ近くの高校へ入学したので入学式当日は病院の窓から高校で入学式に掲げられる日本の国旗を見ながら簡易ベッドに横になり「今頃みんな入学式か・・・」と思ったことを覚えています。
本当に生理のように、月一回ペースだったときは、母とカレンダーを見て、「先月は〇日だったから、そろそろ痛み来ちゃうかねぇ」なんて話しているとその日の夜中に痛みが来て、「お母さん、ごめん痛くなっちゃった」と深夜に母を起こして吐きながら車で病院に向かいました。
今になって、その当時の母の気持ちを想って想像して、涙が出そうです。
自分が今母になってみて、その当時の母が仕事をして帰ってきて、夜中に我が子が痛み苦しみ、自分が眠くても疲れていても、夜中に起きて着替えて車に乗って病院へ向かい、小さな椅子に座って何もできす、子供を見守る。
心臓がキュッとなります。
辛い思いでですが、思い出して、こうやってアウトプットできてよかった。