「相棒がいる」ということ(MIU404感想文)

MIU404最終話を見てから、思いが募りすぎてnoteアカウント作りました。
読解、曲解、もしくは妄想です。

注)MIU最終回、ANN、アンナチュラルのネタバレあります。

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小話。

音楽の要は、メロディである。
いやいや、リズムだという人もいれば、ハーモニーだという人もいるだろう。

リズム・メロディ・ハーモニーは、音楽の基本要素。
ドラムやベースが居ないバンドで「リズム弱いね。」と言われたって、そんなのは当たり前。ボーカルやギターが悪いとか、下手だという話にはならない。

(脱線するけれど、これは弾き語りやスリーピースバンドに限界があるという話ではない。MIYAVIさんなんて、ギター1本でリズムとハーモニーを奏でながら自分で歌っちゃうし、日食なつこさんのピアノなんか、バスドラがついているのかと思う。すごいよね。)
(て、書いていたら、日テレ音楽の日にMIYAVIさんでてきた。タイミングすぎてびっくり。)

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MIU制作チームを想う。

最終回の放送前。
公式SNSが、クランクアップではなく、最終回の“完成”を知らせたのが印象的だった。

「スタッフキャストが、
 全力で台本を作り、
 全力で撮影し、
 全力で編集して、
 全力で音楽を入れました」

脚本の野木さんのツイートから言葉を借りれば「それぞれに仕事の領分」があり、そのすべてあっての“完成”という、作り手の思いが垣間見えた。

MIU404は、放送前から各作り手への注目度も高い作品だったと思う。

主演の2人に、主題歌は米津玄師。加えて放送延期から最終回までの期間、脚本の野木さん、演出の塚原監督、新井プロデューサーへの取材記事も多く見られた。
この俳優なら脚本家なら間違いない、という期待も高かったのではないだろうか(ちなみに私は塚原監督ファン。野木さん曰く、画が“エモい”。パラビ入っている人は、ぜひグッドワイフも見てほしい。)。

後段で、志摩と伊吹は凸凹コンビではない、という話をしようと思っていたら、「凹凹コンビの伊吹と志摩」という公式instagramのコメントに先を越されてしまった。

なので、野木さんと新井プロデューサーの凸凸感の話をしたいと思う。
TVガイドのインタビューからは、アンナチュラル(制作陣が同じ)が難しかった、一方で社会問題に手ごたえを感じたという新井プロデューサーあっての、今回の野木脚本というのがよく分かる(そこに加えて我らが塚原監督。もう間違いない、という感じ。)。

つまりは、人は「自分がダメだから人と手を取りあう」のではないのだ。

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コロナの無かったエンドを想う。

最終回後の星野源ANNでは、当初14回放送を予定していたこと(それを野木さんが13回にしようと画策していたこと笑)、コロナ禍で何パターンもの検討を経て、全11回に漕ぎつけたことが明かされていた。
(8話で終わりだったら、志摩過去回→伊吹とガマさん回→ハムちゃん間に合ったの回、くらいの感じだろうか。11回あってよかった、、MIUの真骨頂は10話と11話だと思う。)

果たしてコロナの無い世界には、どんな最終回が用意されていたのだろうか。

志摩が死んで、伊吹が発砲して、オリンピックがある世界で久住が暗躍してなにか悲惨なことが起こって、、
そこまで見せて、ビー玉は分岐点を違う方へと転がって、志摩と伊吹は今日も404号車に乗っている。オリンピックで浮かれる社会は、依然として鬱々とした問題も抱えているけれど。
、、なんて最終回だったら、展開はもう少し分かりやすかったのかもしれない(野木さんがそんな安易なものを書くとは思えないから、たぶん違うけど。)。

偶然にも最終回の数日前、私はこんなことを自分のツイッターに書いていた。

「みんな、コロナが無い世界線には東京オリンピックがあったことを忘れがちじゃない?」

もちろん、コロナ禍の今日へ繋がる“パラレルにならない”最終回は傑作だったが、想像するくらいは許してほしい。

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最終回の“あのシーン”を考える。

「バッドトリップ」や「悪夢」「夢オチ」とも評される最終回だが、私はあれを“夢”とは見ていない(“悪い”夢だったのか?という話は、以前のnoteのとおり。)。
あれは「起こったかもしれない」IFの可能性であり、もっと言えば、志摩と伊吹からすれば「そうなっていれば、確実にこうなった」IFの物語だ。

本当にそうなったか?と言えば、敵は拳銃を持っていなさそうだし、志摩もあの場面で拳銃は携帯していなかったのでは?と思っている。(クルーズ船のシーンが勤務日なのか休日なのかが読み取れないのだけれど、桔梗隊長の退任の日と服が違うのは確実。この辺り、ディレクターズカット版なら時間経過が分かるかなと思ってる。)
それでも、たぶん志摩と伊吹はあれを“現在地のスイッチ次第では、確実に招かれた結果”と考えているだろうと思う。しかしそれは、「志摩と伊吹がそう考えている」という話であって、志摩も伊吹も自分自身のことを誤解しているからややこしい。

分かりやすさを目指したMIU404で、分かりづらいシーンがあるとすれば、間違いなくこの志摩と伊吹の「客観的な人物像と自己認識のズレ」が原因だ。
そして、それこそがMIU404が面白くてたまらないところでもある。

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MIUのキャラクターを想う。

通常、物語の登場人物はキャラクター付けされ、そのキャラクター(性格)どおりに言動する。例えば、アンナチュラルのミコトは、公式で「合理的な性格」「死んでしまえば終わりだと考えている。」と紹介され、劇中でもそれに沿った発言と行動をしている。
では、MIU404ではどうだろうか。

まず、志摩の場合。
「桔梗・陣馬からの信頼は厚いが、自分も他人も信用しない。」

いきなりズレている。
桔梗や陣馬が「見る目のある上司」であるのは視聴者にとっては周知の事実で、その桔梗と陣馬が信頼しているのなら、志摩は信頼に足る人物に間違いないのだ。それなのに、志摩は自分を信用しない。挙句、「他人のことなんてどうだっていい」「善人のふりをしているだけ」などと言い出す。
11話に渡って見てきた私たちなら、志摩をどう見るだろう。「正義感」「自己犠牲」「熱血バカ」
志摩が嫌いそうなキャラクターばかり並ぶのは、偶然だろうか。

伊吹の場合。
「俺の“勘”は当たる」野生のバカ。たった一人信じてくれた人がいたから、自分も人を信じたい。

4機捜やハムちゃんからも今では好意的に受け入れられている伊吹を、信じてくれた人が一人だけというのも、疑わしい。
最終回、10月16日0:00の止まった世界で、久住の「クズはクズのまんまとちゃうんか?」を言わせたのが伊吹の深層心理だとすれば、伊吹自身が一番、伊吹を信じていないのではないだろうか。2話の序盤、前の車に犯人が乗っているというのを「信じていない」と言いつつ嘘とも断定しない志摩に、驚いたような伊吹の表情が印象深い。

私たちは無意識に、物語の登場人物は「私はこういう人です」と名乗って行動すると思い込んでいる。現実は、そんなに達観した人ばかりではないというのに。
だから、MIUの物語は生々しくて、分かりづらくて、そこが面白い。

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志摩と伊吹を想う。九重を想う。

そんな志摩と伊吹は、2人で相棒として補いあっているが、ここで、人は「自分がダメだから人と手を取りあう」のではない、という話に戻る。

志摩と伊吹の補いあいは、凸凹のピースが嵌るのとは少し違っている。
単純な頭脳派×肉体派コンビでもなければ、熱血×クールコンビでもない。どちらかと言えばどちらも熱血派。自分を信じていない点と、互いを救うため尽力する姿はむしろそっくりで、似たもの同士ともいえる。最終回で、九ちゃんが志摩と伊吹を「バカ2人」と括ったのは名台詞だった。

2人には補い合う余地があるが、九重との対比により、その“足りなさ”が成長度合いの不足ではないのが分かる。

九重の足りなさは、分かりやすく成長度合いの不足だ。
例えば、1話の九重の視野の狭さは単なる経験不足。陣馬に「初動は大きく見ろ」と言われ、2話で実践する。他にも、3話では高校生の犯罪を自己責任といい、4話ではハムちゃんを匿う桔梗をそんな必要あるのかと言うが、経験を積み、現実を知り、考えも行動も変わっていく。

面白いのは、最終回でも序盤ではうどんの差し入れに対して「陣馬さん意識ないのに、食べられるはずないじゃないですか。」と零していたのが(伊吹の差し入れはうどんではなかったが)、後半には「俺がつくった博多うどんも食べてよ。」と語りかけているところだ。

そして、その“小話”が効いたのか、うどんの箱が崩れたせいか、ともかく、うどんのおかげで陣馬さんは目を覚ますし、ついでに志摩と伊吹の最悪の分岐点をスイッチさせる。
(うどんが崩れなくても、陣馬さんも志摩も伊吹も目を覚ましたかもしれないが、少なくとも九重から見れば、うどんのおかげで自分が3人を救ったみたいに見えているはずなのが面白い。)
人の情を理解したことで、九重はまたひとつ大きくなったように見える。

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そしてまた、志摩と伊吹を想う。

九重と比べれば、志摩と伊吹は1年経っても成長していないように見える。
2020年の夏も2人で小競り合いしながら密行している。また間違えるかもと言いながら、間違えてもここからだと言いながら。
ここで、2人が変わっていないと非難するのは野暮だ。2人は成長こそしていないが、相棒から大切にされていることを知っていて、知っているからたとえ自分が自分を信用できないときも、もう絶望しない。

SNSでは、志摩も伊吹も相棒が居なければ元の彼らのままだという感想も見られた。しかし、彼らが彼らのままで、それはいったい、それでは彼らがダメだということになるのだろうか。

人は「自分がダメだから人と手を取りあう」のではない。
手を取り合うことで、一人よりもよく生きられる。それはまるで、バンドがいくつもの楽器で構成されるように。MIU404という作品がそうして作られたように。

「間違いも失敗も」言える相棒がいる。
これ以上の変化があるだろうか。

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MIUの無い金曜日を想う。

MIU404の無い金曜日に寄せて。

、、とするつもりが、金曜日には間に合わなかったうえに、どうやら12話があったらしい(ノリの良いファンと公式に感服。)。

と、これを書いているあいだに、公式SNSにスタッフ&キャストのBIG LOVEな写真が上げられていた。泣いた。

「相棒」というフレーズが挑戦的だよね、という話も書きたかったけれど、入れるところが無かったので少しだけ。
「相棒」と言えば、有名な“あれ”がある。この15年くらい、「相棒」と聞いて“あの”相棒を想起しない人はいないだろう。アンナチュラルでも「相棒目指してるらしいっすよ。」という久部に、東海林が「どっちが右京さん?」と返すメタネタがあったくらいだ。そこに、刑事ドラマで挑戦するとは、、!
志摩と伊吹の物語が、相棒というフレーズを新たに印象付けたのは間違いない。
バレンタインデーキッスがチョコレートディスコにバトンタッチしたように、“相棒像”の世代交代となるのだろうか。

ほかにも、MIUの物語の紙一重感と曖昧さの話、「現在地」と「結果」の話、アンナチュラルチームが描く疑似的な「家族」の話。
ああ、まだまだ語りたい。

~9月19日追記~
桔梗さん退任挨拶、404退勤→久住の「目悪いんとちゃう?」のシーンが夕焼け→そのあとの志摩と児嶋@カフェのシーンは夜→志摩と九ちゃん@警察庁が再び昼間。
4日おきの当番勤務は、昼夜昼夜の風景の明滅映像の差込で表現されているものの、ここではそれがないので、カフェの翌日が警察庁のシーン=非番か週休ってことになる。
やっぱり、拳銃携帯してないよね、志摩。

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