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自分を痛めつけても悲しみもツラさも消えることはない


わたしは中学生の頃から自分を痛めつける癖があった。

心や頭がモヤモヤして、自分に苛立ち、憎くなった。
周りも憎かった。生きているけど、全てに音がない感じ。今思い返せば全てがだいたい(だいたいね)愛おしくも思えるのに、当時は憎くてたまらなかった。自分の狭い思考や視点からはこの世の中の広さには気づけない、素晴らしさには気づけなかった。だから、中学生あたりの年齢で、空の青さに気づいて、風の心地よさに気づいた人は、本当に羨ましくて、どんな気持ちで毎日を送っているのだろうと思ったりする。自然の素晴らしさにそんな早くから気づけるなんて、羨ましくてたまらない。いつまでもその感性は枯れないで欲しいと思ったりする

わたしは気づけなかった。
人と感情をちゃんと交わした記憶もない。思い出すのは怒られた記憶や、ただ「ちゃんと人と話そう」としている子の顔だった。

わたしの家から学校までの距離は、500人中10位以内にランクインするのではないかというくらいの近さだった。嫌で嫌で仕方がなかった学校がこんなにも近い、悲しかった。(笑)




本当に、学校生活の2/3は記憶がない。このことについてお医者さん教えてくださいって思うくらい不思議なことだ。

子供の頃(ここでいうと中学生〜高校卒業した辺りまで)は無知すぎた。全てがわからない、だから怖かったんだと思う。過去のわたしに、「もっと助けを求めることはできなかったの?」と何回も聞いたし、今も聞きたくなるけど、それは愚問な質問となる。

愚問:「もっと助けを求めることはできなかったの?」



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人が何に対して苦しんでいるかとか、本当に見た目ではわからない。

人に話す機会なんてほとんどないし、悩みを打ち明けられる関係ってきっとそんなに多くない。悩みをそれとなーく言っても真剣に聞いてもらえることがわたしにはありませんでした。(周りの人達は、前例を知らない初めてのことだから、何がどうなってそうなっているのかがわからないんだと思う。どれくらいこの人は困っているかなんて検討もつかないんだと思う。それが当たり前と言われたらそうなのかもしれない。悩みなんてそんな簡単に解決できないこと、みんななんとなく知っているのかな?)



「言葉にしないと誰にも伝わらない。」

こんな言葉を目にするようになったのは、いつからだろうか。少なくとも、高校生のうちには知ったはずだが、知っただけで理解はできていなかったと思う。それよりも「はっきり言ってくれないとわかんないんだけど(怒)」という敵意剥き出しの言葉がしっくり来ていたんだなと振り返って思う
本当に敵意剥き出しだった。(笑)力もないくせに怒って吠え散らかして。怖かったんだろう、自信がなかったんだろう。(この現象は、大人になった今でも見かけることはあります。大人になるってなかなか難しいときもあるようです。)

人間関係も上手に築けなかった。言葉も足りないし、相手を敬うことも、大切にすることもできなかった。方法もわからなかった。だからどこかで関係を築くことをやめてしまった自分がいた。これは当時では、自分を守る1つの行動だったようにも思う。現実と向き合っていくには、力がなさすぎた。心が弱過ぎた。支えになってくれる人がいると思えるだけできっと人生は変わっていたとも思うけれど、残念ながら当時のわたしにはいなかった。

こんな出来事を、当時は周りのせいにした。環境のせいにした。傷ついた、塞ぎ切った心を持ったわたしは、そうすることで現状を突破しようとしていた。実際には突破できていないんだけど、もう耐えられなかったんだと思う。寂しいし、退屈だし、でもどうしたらいいかわからない。誰が教えてくれるわけでもないし、数え切れないくらいの毒を吐きながら、失敗しながら、なんとも雑に、前に進もうとした。自傷もこの方法の1つに過ぎず、「助けて」というヘルプの行動でもあるんだろう。

そんな姿を世間は、「グレている」「悪い子」「病んでいる」そう呼ぶのだろう。

人が何に対して苦しんでいるかとか、本当に見た目ではわからない。

そして

人は思った以上に見た目で判断し、中身を見てはくれない。

目の前で起こっていることが全て。背景まで考えているほどみんな暇じゃないのかもしれない。
というか、「なぜそこまで考えなければいけないのか」これがもっともらしい答えのような気もする。(正当化しているわけじゃなくて)


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この思考に出会ってから、人の見た目で色々と決めつけてしまう人が苦手になった。価値観は人それぞれだし、言うことも人それぞれだが、
「あの人って○○そうだよね」は、安易に口にするべきものでもないと思うようになった

人の幸せを誰かが決めることはできないし、人の不幸を誰かが決めることもできない

人から嫌われることは確かに怖い。わたしも本当に怖かった。だからいい人になったし都合のいい人にもなった。八方美人にもなったし嘘もたくさんついた。でも、もっと怖いのは

「罪悪感を誤魔化すために誰かを攻撃すること」
「罪悪感から嘘をつく自分を正当化すること」だと思った。

↑のような人がたくさんいる。いい人は損をするって言う言葉があるけれど、それって↑の人に囲まれてしまっているから損する人が出てきてしまうのかなとも思ったりする。健全な環境ではありえないことなのかもしれないけど、健全という意味でいうと、生きる本能からくる防衛本能的な攻撃ならありえると思う。でも、健全じゃない歪んだ心から生まれる感情で、攻撃に至ってしまうことは、起きて欲しくない事実であり、誰も幸せになることはないと実感した。この「罪悪感を誤魔化すために誰かを攻撃すること」
「罪悪感から嘘をつく自分を正当化すること」
に気づかない限り、永遠に幸せはやってこない。
自分だって、人から見ればどう目に写っているかなんてわからないのだから。


そして、手に入れたこの言葉、
人が何に対して苦しんでいるかとか、本当に見た目ではわからない。
人は思った以上に見た目で判断し、中身を見てはくれない。



これさえわかっていれば、必要以上に傷つく回数も減った
人に対してもそう考えられるようになったから、人を傷つけてしまう回数も減らせるようになったのかもしれない。だからって、この言葉を手に入れたからって、いきなり「そうですか!じゃあ今日からスッキリ元気に生きれそうです!」ってそんな都合よくはできていないわけで、いろんな葛藤が生まれたりはするんだけど、人を都合よく見過ぎないという意識は、いつも持っていてもいいと思う
理解されようとは思う必要はない。


自傷についても、批判の声はきっと大きいと思う。世の中そんなもんなんだよって今は言えたりするけど、当時はそんなもんってどんなもんだよって、1mmもわからなった。「え、痛そう〜・・・」「引く・・・」「メンヘラ」これがすぐに出てきやすい言葉なのかなと思ったりする。誰もその背景なんか考えてはくれない。自分だって人の背景を考え続けるなんて、気が狂いそうになる。人の数だけの人生だから、そんなことわたしにできるわけがない。

それにその人は自分とは違う。育ち方も違うから考え方も違うし、興味をもつ対象だって違う。だから反応は違って当たり前だし、わたしにはわかるけどあなたにはわからないことがあるように、あなたにはわかるけれどわたしにはわからないこともある。正義の定義も、違うから、完璧な正解なんてないのだとちょっと思ったりする。

わたしは理解されないものだと思うことも、ちょっぴり生きやすくなるコツなのだとも知った。これは、理解されない=否定されているということではない、(相手からしたら否定してるよ!間違ってるよ!かもしれないけど(笑))自分が間違っているということでもない。
ただ、一緒にいることとか、仲良くすることができないということは、自然なことなのだと思う。人は分かり合えることもあるけど、分かり合えないこともフツーーーーーにあるわけで。これに気づくと、狭い世界で生きていくことがどれほどありえないことか、自然現象に逆らっていることなのか、ようやく気づくことができる。自分の正解は誰かにとって間違いで、誰かの正解が自分にとっての間違いでもあったりする。人の数だけパターンがあって、それに全て答えを求めるなんて、無理に決まってる。



自傷はできたらやめてほしいなとも思う。でもそれはわたしの価値観であり、誰かにとってはそれが正解になることもあるんだよね。
でもその自傷が傷であるのならば、もうそれ以上傷をつける必要はないし、あなたには幸せになる権利があると考えている。
傷つく必要なんてどこにもないということ。


言われてきた言葉=100%の真実

ではない。
今からどう生きるかは自分で選べる。
そしてこの世界には自分と同じように、自分を傷つけたけれど、立ち上がれた人がたくさんいるということ。
街中ですれ違っても気づくことはできないけれど、人と交流していくことでそのうち出会えるのかもしれない。
たった一度きりの人生に、自分が何を見出したいかとかわからなくてもいい。暴れたのちに、生きる自分を許してあげられるといいよねって、思ったりする。


いきなり大きく変わることはないかもしれない。ツライから暴れてしまうこともとてもツライ。自分をそうさせる環境がとても憎くもなる。このツライ今が未来にきっと役立つなんて、1mmもわからない。
自分を客観視とかメタ認知とか言われてもわからないし。

誰かが「○○はこうなんだよ」って答えみたいなのを差し出しても結局それに「うん、そうだね」と終わることができない。
だから生きづらいんだろう。素直に納得すること全てが正解じゃないということは今も忘れずにいること。自分が少数派になって初めて見えるものがある。信じがたい現実にも気がついたりする。それでも自分が自分を諦めることがなければ、やることはある。


ツライだろうけど、頑張らなくていいから、諦めることもあってもいいから、でも自分を生きることだけはまだ辞めないでほしい




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ちょこ
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