マイノリティになって思ったこと〜彼女から、みんなから教えてもらったこと〜
マイノリティ。
「少数派」という意味があります。
あなたは、マイノリティですか?
それとも、マジョリティ(多数派)ですか?
本当はマイノリティだけど、隠して生きている人もたくさんいると思います。大人になって、1つ1つ年齢を重ねて知りました。
マイノリティで生きることは、ときにとても大変で、ときにとてつもなく、苦しいのだと。そしてその大変さや苦しさは、なかなか見つけてもらうことができません。それはやはり、圧倒的に人が少ないから、少数派であるから。単純に声が大きくならないからだと思っています。
ただ、様々な活動を見て、活動している人達を見て、少しずつ少しずつ声が届くようになっているんだということも知りました。それはとてもうれしいことだと感じています。それでも、それは活動をしない理由にはならないとも思っています。それだけ苦しい人がいるし、あってはならないと思うことが現実に多いからだと思います。
わたしは、差別に関してはとても悲しいと思います。見た目で判断してしまうことは、仕方ないと思う反面、それは人の心を傷つけていいと=にはならないと思っています。
世の中が変化し、様々な事実が広まり知れ渡るのであれば、自分の考え方や価値観をそのままにしておくことは、必ずどこかで摩擦を発生させることになると思っています。その摩擦が人を傷つけたり、自分を傷つけたり、争いを起こしてしまいます。
「人を理解しようとすること」、「人を許すこと」は、人間関係を築いていくうえでとても重要ですが、とても力を使うようで、なかなかうまくできないこともあるようです。「自分を認めて欲しい」となかなか折れることができないことは、きっとほとんどの人が経験してことがあるのではないかと思います。わたしもそうでした。でもやっぱり変だなと思うことがあるのです。
「人に変わることを求めるけれど自分は変わらない」
価値観をアップデートしないのです。「できない」人もいるようです。譲れないことがあったり、信念を貫く、それはとても素晴らしいと思います。でも、もっと見なければいけません、事実を。周りを。同じ日本人に見えても、中身はバラバラです。無表情に見えても、本当の気持ちなんてわかりません。きっと思っている以上に、いろんな人がいる。みんな同じなんてありえない。だから本当は、もっともっと声をあげていい。そして人をたたいている場合じゃない。
日本だけではないと思いますが、「自分らしく生きること」はとても難しい。そして一生自分にうそをつき死んでいく、これは残酷じゃないとはとても思えませんでした。
わたしには学生のころの記憶はほとんどありません。学生生活は合わず、泣くことが多かったです。今の時代では、「不登校でも大丈夫だからね」という意見を発信している人も増えてきましたが、わたしが感じたこととしては、不登校は悪であり、そしてすべて本人が悪く、不真面目だから、というものでした。実際にわたしはそう言われました。わたしは「悪い子」でした。14歳で自分の意見をしっかり話せていたら、今は少し変わっているかもしれませんが、14歳で意見を正確に伝えられるもんなのでしょうか。そして伝えたら、あの人たちは向き合ってくれたのでしょうか。「あの子と友達になるのは辞めなさい。」そういう人がいる環境で。この時にも理解者が必要でした。
「この子に理解を示せる人・示す人」。
子供の気持ちを抑え続けることは、とても危険だと思います。それは大人になっても同じです。自分を否定されることは、心が死んでいきます。そしてなにより「無意識の否定」が1番こわいです。
それから17歳くらいで精神科の病院に行っています。1人でいきました。そして薬を飲みながら高校生活をおくりました。わたしだけじゃないと思います。きっとたくさんいます。わたしは、高校に1人、理解しようとしてくれる先生がいたので卒業できました。その人がいなければ、わたしは高校は卒業できていなかったかもしれません。本当にそんな環境でした。
「誰もが普通にできる」「これが普通だから」「これができないなんて普通じゃないよね」「そんなことするなんて普通じゃないね」マイノリティだったり、みんなと同じことができないことで、とても苦しかったり、自分はダメなんだと自分を責めたりする人がたくさんいます。わたしもそうだったから辛さが本当にわかります。
「そんなことで泣いてちゃダメだよ」「そんなことでへこたれてたらダメ」「メンタル弱いんだね(笑)」「メンヘラだ」「精神的な病気になるって、弱いんだね」こんな言葉に苦しんでいる人もたくさんいる。わたしはこの言葉は実際に聞いたし、言われたこともあります。言ったこともあります。
失敗もたくさんしたし、自分をいっぱい責めたし、人に迷惑をかけてしまったこともたくさんあります。それでも、死を選ばない限り生きていくことになります。記憶は消えないので、それを拒絶して、受け入れて、拒絶して受け入れて生きていきます。これはわたしだけの話じゃない、たくさんの人たちにも当てはまる話だと思っています。
人を傷つけてしまったこともそうだけど、自分自身もいろんな経験をしたら、人のことを勝手に判断することはとても怖いことだと気づきました。そして今も尚、差別や偏見に苦しんでいる人はたくさんいるのだということ。苦しいけれど、埋もれずに自分らしく生きていこうとしている人がたくさんいること、とても勇気のいることだと思います。中学生や高校生でも声をあげている人がいます。勇気があり、とてもかっこいいと感じます。
社会人になっても、大人と言われる人がたくさんいる場所にいても、差別や陰湿な部分はたくさんある。それだけ、違うものを受け入れることは難しく、怖いのだろうと感じます。ですがそれは人を傷つけていいことにはならない。
声をあげたいときにあげられる環境、世界になればいいと思います。
「なぜそうなるのだろうか?」こう考えられるだけで答えは見つかるかもしれない、いきなり拒否じゃなくて「なぜそういうことを言っているのか?」「なぜなんだろう?」そう思ってくれるだけで救われる人はたくさんいる。
いつも平気でいるように見えても、強そうに見えても本当のところどうかなんてわからない。優しい人も多いから、みんな本当は心が傷だらけだったりする。どうして大切なところをしっかり見ようとしないのか。マイノリティに力を注げるなら注いだほうがいい。声が小さいから。
優しい心や、人間1人がボロボロになることは、みんなだって見たくないはず。そして自分らしく生きようとすることを拒むのも違う気がする。LGBTQの人達だって周りにいたりするし、やっぱり傷ついてほしくないです。いろんな人がいることで、驚くことも今だにあるけれど、でもそれが事実です。わたしも自分らしく生きたいと思うように、彼らや彼女たちもおもっているだけ。嫌いなものも、好きなものもちがうけれど、それは「違う」というだけ。
責めたり否定したり拒絶しつづけてもなにも変わらない。つらいことも受け入れたり許すことで前に進めるようになることもたくさんある。マイノリティであるだけで、そして差別の対象になるだけで、生きてるだけで生きてることを否定される、それはとても苦しいし、悲しい。
自分の気持ちに素直になって生きようとしているだけで、誰も傷つようとはしていないです。自分がマイノリティであること、差別されている事実を受け入れたうえで活動することは辛いことも多いはず。でもわたしがかっこいいと思うことは、「向き合って現実を変えようと動いていること」。行動すれば、叩かれやすくもなるし、批判を受けることもある、でもそこに立つということ、誰にでもできることじゃない。そしてその場に立とうと思えるほど強い意志があるということ。その自分の意思に自分で答えていくこと、それが自分の人生を生きていくことなんだろうなと思っています。
自分と同じような人に言葉を届けるには、自分のことを話すことも必要だったりします。でも、辛かったことは思い出したくないという気持ちもあるし、理解できます。良くも悪くもSNSが普及し、そして今まで目につきにくかった事実をたくさん知る。いいことも、わるいことも。
わたしが学生だったころ、今のような時代だったら何か変わっていただろうか、とも思ったりもします。ただ、助けてくれる人はいたという事実もある。
動くことで、少しでも何かを変えられる可能性はあるとわたしは思います。ただ相手に伝えることは容易ではないかもしれません。
「それはあなたにとって乗り越えられることだったから起きたんだよ」や、「いい経験になったね」そういう言葉がありますが、できることなら経験したくなかったこともたくさんあると思います。
心の病気もその1つ。なったことがある人ならわかると思いますが、なかなか治らないものです。そして理解を得ることもとても難しいです。だからこそ、理解をしようと示してくれる人がいることは救いにもなるし、同じような人がいることを知ることも救いや勇気になる。
過剰評価はよくないですが、過小評価している人はとても多いです。自分のことを平気でブサイクだ、とか、ダメだとかすぐに言ってしまっています。とても素敵な人なのに、優しいのに。型にはめすぎるから、少しでも型からはみでると「×」になる。自分をすきになること、自分を誇りに思うことはそんなにダメなことなんでしょうか。ただ1つの失敗で、一生に×をつける、それでよかったのでしょうか。
「失敗したらもう一度やり直す」「チャンスをあたえる」これがやりやすくなれば、また立ち上がれる人だっているはずなのに。驚くほどたくさん。
たくさんの活動があるから、声をあげやすくなっているのも事実。
傷ついた心のまま生きなければいけないわけでもないし、楽しく生きちゃだめとかでもない。わたしは傷ついて当然という理由もよくわからないし、傷つくことが当たり前だと思ったら、その声は誰にも届かない。勇気がなくて声があげれない人もたくさんいるから、その人に届けられればいいとも思う。
誤解されたのなら、解いたほうが自分を守れるし、自分を好き勝手言われることは、違うと思います。真実とは違うことを勝手に言われることは、悪口になってしまいます。都合よく解釈されることなんてたくさんあります。そしてマイノリティであれば、その対象にされやすいです。
「少ないことは間違い」「多いほうが普通」これは違うと思います。今まで知らなかっただけ、真実が出てきただけ。都合のいいように言われてきたのなら、それは違うと声をあげて、本当はこうだと声をあげて。
理解されなくても、差別されても、好き勝手言われても、それは相手を傷つけていい理由にはならないです。でも自分はまず自分でしっかり守らなくちゃいけない。
傷ついてしまったり、倒れてしまっても、まず自分に1番はじめに声をかけられるのは自分です。だから自分の意思はできるだけ守ってあげたいし、守ってほしいとも思います。
年齢なんて関係ありませんでした。見た目がすごく立派な大人に見えても、中身は全然違うことなんてたくさんあります。消費するような人間関係はたくさんあるし、きれいなことばかりじゃない。だからみんながみんな幸せだともわたしは思わないです。それは思考停止です。パッと見幸せそうに見えても、よく見れば全然違うし、少し話してみればそうじゃないことなんてたくさんあります。
日本は平和なんて絶対嘘です。家族がいれば安心も嘘。世の中の幸せのイメージなんてあくまでもイメージです。理想と現実は違うことなんてたくさんあるし、1人でなんて絶対生きていけないです。(生きていける人もいるかもしれませんが今のところわたしは知りません。)
優しくならなければ、と思ってもそう簡単にできることではないと自分でも感じます。でも、優しくありたいとは思います。人に優しくできる人でありたいと。だから自分らしく生きたいと思うようになりました。
悲しいことは見たくないし、みんな幸せだから大丈夫と思って暮らしていくほうがいいのかもしれませんが、自分が知っていることに向き合うか向き合わないかは自分次第です。そこからどうするか、どうもしないかを選ぶのも自分自身です。ここにこうやってわたしが書くことも、ただ書いているだけであって、理解してほしいとは思いません。それは相手の自由だからです。
ただ、心境の変化としては、「自分の意志をつらぬこうとおもったこと」、そして「誤解を放っておかず違うと言うこと」がありました。
辛くて倒れて言葉にすることもしんどかったですが、少しずつ戻り、こうして言葉にできるようになりました。NOということ、誤解をとくことなど、わたしには放っておいていることがたくさんあります。それは自分を傷つけさせていることだと気づきました。こんな生き方は嫌だな、と単純にそう思ったんです。
21歳のころ、写真を知って、写真で表現しているひとたちがとても憧れでした。わたしには能力もなく、ただ思いの強さだけが武器でした。そんな子供のいうことに答えてくれた大人がたくさんいました。同じような気持ちを抱えている人もいたし、元気がないひともたくさんいました。若いが故にたくさん失敗したし、伝える力も、ありませんでした。そのときのわたしになにが必要だったのか、なにが間違っていたのかは当時は知ることはできませんでした。数年後、あのときこうすればよかった、さらに数年後、こうしたかった…たくさんの思いや悔しさが出てきました。本当に目の前のことしか見れず、視野も狭く、そしてなによりも自己中心的でした。あれほどの人間関係はなかなかできあがらないと今では思います。あのときの記憶には今でも苦しめられるし、そして今でも、憧れることもあります。賛否両論、だったはずです。でも、その場に立ったことは間違いではなかったと思います。これがしたいという意思に答えて動いたからこそできたこともたくさんありました。知ったこともたくさんありました。
あのときなら、泣くこと、怒ることしかできなかったことも、今では受け止めてそして言葉にして返すことができるし、それをこれからの活動に変えることができる。反面教師にするとしたのなら、「自分のモヤモヤを無視せず向かい合う人になること」そして「多数派だけを信じないこと」です。多数派に声は傾きやすいし、多数派が正しいとされやすいです。実際に正しいこともあると思いますが、そうじゃないこともあります。
少数派に、マイノリティになったことがあるからこそ、どう生きていくかを考えることは、きっとよくあることなのだと思います。経験したからこそできることもあると思います。
そしてここに何を書くのかも、自分次第なのだと気づきました。本当の意味で。