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変えられないことを嘆いてもしょうがないし。

「この世界には自分の力で変えられないことってたくさんあるんだなぁ。」

年齢を重ねる度に、そう思うことは1つ、1つと増えていった。でもむかしは、納得ができなくて変えてやる!ってジタバタしていろいろ行動しようとしたり、表現することに時間を使っていた。動いているときのほうが、わたしらしかった。かっこいいとはいえないほど、必死で、周りが見えていなくて。でも、あのときのわたしは、やりたいことが明確にあって、それをこなしていくことが楽しくて、達成感で、生きていてたのしいと感じていたと思う。変えられないことに対して、「わかった、闘う!」とあまり強くない武器をもって挑みにいっていた。記憶をもっと細かく思い出したいんだけれど、途切れ途切れになっていたり、大事な部分が抜け落ちたりしていて満足に思い出すことができない。ひどいめにもあったし、たくさん嫌な思いもした。それらをそのまま放っておくのではなくて、何かしらのかたちで、消化しないと、と今は思っている。悲劇のヒロインだとか、かわいそうでしょ私、とかは言いたくないんだ、わたしかわいそうじゃないから。

放ったらかしにすると、自分の気持ちを大切にしていないことになる。「今まで生きてきた人生の誤解を解くこと」は、これからの人生にとって必要なことであり、自分はこうなんだと強く思って生きていけることの1つの材料になる。よくわからない人の好き勝手にさせちゃだめだよ、自分の人生なんだから。汚い言葉をたくさん受けたのは、過去の自分。その過去の自分からしっかりバトンをもらうのは今のわたし。傷をみるのはとてもつらいだろう。泣き出してしまうかもしれないし、発狂してしまうかもしれない。それでもこれは、やらなければいけないんだと、なんとなく感じているんだ。




わたしは、うつうつとした毎日が嫌いだった。だから、表現することにいろんな期待をかけた。表現することで、このうつうつとした世界を変えたいと思った。でも、表現することで1番救われていたのは、わたしだった。つくりあげようとすることで、自分の全ての感情をぶつけることができ、自分の頭の中や心の中にある黒いものを全て出そうとした。黒いものばかりじゃなくて、すこしやさしいものだって、生み出せるようになった。きっと少しづつ救われて、心が変化したのだろうと今、感じている。

でもずっと気になったことがある。表現のそばにいると、必ず表現をばかにするひとがいた。笑う人がいた。頭がおかしいというひとがいた。ナルシストだと笑う人がいた。最初は腹が立った。一生懸命やっていることなのに、どうして笑うんだろうか、と。笑う人たちを笑い飛ばすことができなかったし、ただただ悔しかった。「そんなことやったって無駄だよ」そう言われることも悔しかった。自分の全てを否定されたような感覚、わたしがやっていることは無意味だったという感覚、この世界には必要なかったんだという感覚、生きているのもつらくなった。

あの日々は、なんだったのだろうか。わたしが描こうとしているものは、全て無駄で、何の価値もないものだったんだろうか。こんな考えがわたしを支配した。そこからわたしは、立ち上がれなくなった。わたしは絶対にあいつらを忘れない。醜い憎しみだけがわたしの心に焼けついた。わたしはあいつらに敗北し、自分を見失った。




あれから何年も、ときが過ぎた。なんの情熱ももてないまま、なんとなく毎日を生きた。仕事に何も見出すことができず、空っぽな毎日。空っぽすぎて、あいつらのことすら、いつの間にか忘れてしまった。それくらい、なにも感じなくなった。「このまま、しぬのか」そう思うと、ありえないほどの虚しさがわたしを包んだ。落ちて、落ちて、落ちるほど、わたしは闇に包まれた。あんなに楽しかったオシャレもやらなくなった。自撮りだってしなくなった。変化を楽しめなくなって、未来を迎えることが億劫になった。そんな楽しくない未来をどう生きればいいのか、わたしにはわからなくなったし、そんな日々に対して、「わかった、闘う!」とは言えなくなっていた。もうわたしにはなにもない、そう思っていた。

日々やることがなくなっていった。仕事もうまくいかず、楽しいことも減っていった。唯一の救いは、すきなひとが発信することばをSNS越しにみること、そして、アニメをみることだった。これらはクタクタな心でも見ることができたし、涙をながすこともできた。なにもない暗闇の中に、ポツリと火が灯る感じ、パチっと電気が走って光る感じ、それらを経験することができた。たくさん涙は流れた。薄暗い部屋の中でアニメをみたり、スマホをひたすらスクロールする。絶望と少しの希望が交互にやってくる毎日で、感情はジェットコースターみたいだし、まともな日々だとは思えなかった。だから言葉と繋がりたかったし、スマホの中の希望にすがった。アニメにある世界に生きる希望を探した。そしてある日、わたしは会社を辞めた。

自尊心、ゼロ。自己肯定感、ゼロ。自信なんて、ないない。なにもなかった。会社を退職したという事実を受け入れるのにも時間がかかった。「わたしどうしちゃったんだろう」もうわけがわからなかった。会社では一生懸命にがんばった。「力になりたい」そういう気持ちでがんばっていたけれど、ある日、力尽きた。そしてまた、あいつらを思い出した。がんばってもがんばっても、踏みにじろうとしてくるやつらがいる。人を応援するのではなく、自分が成長するのではなく、人を笑い、馬鹿にし、悪者にすることで自分を保とうとする。あれは、モンスターだ。こんなモンスターがいれば、ダメになる人なんてたくさん出てくる。年齢なんてただの数字だ、成長しないまま、大人になっている人なんてたくさんいる。こんな人たちがたくさんいる。また、悔しさがこみあげてきた。「わたし、なにやってるんだろ」「こんなの、無理に決まってる」そう、無理ゲーってやつは存在する。

変えられない世界は、なんどもなんどもやってくる。自信がなくなろうが、心がだめになろうが、消えてくれない。なにひとつ変わらず、外に存在している。わたしが逃げようが、立ち向かおうが、なにひとつ変わらず、ドスンと存在している。「わかった、闘う!」そう言えばまた進めるのだろうか?じゃあわたしは今、なにを武器に立ち向かうのだろうか。そんなこと、また今のわたしにできるのだろうか?そう思いながらわたしは引き篭もった。全てをわたしから切り離した。わたしは自分にこもった。全てを遮断した。繋がるのはスマホの画面の世界とアニメくらいだった。もう心は疲れ果てていた。働けなくなる、そうなってしまったのは、なにが原因だった?あいかわらず、スマホの中に希望を見て、アニメで泣いた。こんなものがたり、いったいどうやって思いつくの?人間がつくってるんだよね?人間のすごさを思い知っていた。アニメだってそうだ、ばかにするひとがいる。「日本のアニメなんて・・・」「オタクだから」・・・世の中は批判ばかりだなあ。どれだけいいんだよと伝えても伝わらない。そういうものなのか・・・。

屈せず生きればよかったのだろうか。そう、屈せず生きることができたら、わたしは動き続けていた。いつも、人の言葉や行動に支配され、心をつぶした。そして自分はだめなんだと責めた。自分は強くならなくちゃと言った。でも、わたしは強かった。あいつらよりも行動して、自分の心に、意志に従った。変えたければ自分が動け、それに従った。そして、1回目のチャレンジで1回目の失敗をした。失敗した、ただそれだけだ。失敗したら叩かれるし「ダメなやつ」と言われる。そんな世界なんてクソクラエだ。でも、でも、わたしはあいつらと同じことは絶対にしない。あんな人にはなりたくない、ただそれだけだ。失敗した人は強くなる。人に笑われた人は強くなる。馬鹿にされた人は強くなる。ガシャーン!!!と武器は割れて新しくなる。そしてどんどん強くなる。立ち止まる度に強くなる。這い上がる度に強くなる。しななければ強くなれる。わたしは表現する人をばかにしないし、あきらめないひとをばかにしない。あいつらに勝つ方法を1つ思いついた。

「わかった、戦わない!」

その変わり、また進むわ。

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ちょこ
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