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親とわたしと弟のハナシ「もう、やめようよ」

わたしは、7人兄弟の長女として生まれてきました。

父は会社員
母はフィリピン人

父と母は、わたしの記憶のある頃には
すでに不仲で
わたしが小学生低学年の頃、
母は、ほぼ家に帰ってくることはありませんでした。


7人をひとりで育てていた父は
毎日、疲弊していて、こどもたちに八つ当たりする毎日でした。

父が帰ってくることが恐怖で、玄関の扉の鍵の音がすると怖くてみんなで一斉に布団に潜る。それが気にいいらない父は怒り、暴れる、そんな毎日だったのです。

母が帰ってくるときは、父がいないときに荷物を取りにくる時だけ。

家から荷物が減っていると、父は、その日に母が帰ってきたことを察し、引き止めなかったわたしたち(兄・わたし・弟の3人)に怒鳴り散らし、「お母さんが帰ってきたときは引き止めろ・追いかけろ・どこにいくか突とめろ」そんなことを言われ続け、わたしたち3人はあるとき、母が帰ってくるときには、尾行することを決めたのです。

母が帰ってきて、3人で尾行し、角を曲がり、また曲がり、家の周りを一周すると、また家に戻る母。不思議に思いながらも、わたしたちも玄関に入ると目の前で仁王立ちする母は「ついてくるな」と冷たく言い放ち、そのまま出ていきました。わたしの心から、だんだんと感情が消えていく感覚があった。尾行がバレていたことよりも、母は子供を守ってくれない人だと確信した感情が、一番の恐怖だった。

その夜、また怒られるのは、わたしたち3人の役目。


こどもながらに
どうしたらいいかわからなかった。

父の言うとおりにすれば、母に怒られる。
母の言うとおりにすれば、父に怒られる。

この理不尽な世界に、大人への絶望的な感覚は膨らむばかりだった。


そんな環境が、わたしたちの家庭ではスタンダードになってしまった。親には頼らない。親にはすべて否定される、だから何も打ち明けない。信じられる大人はこの世に存在しない。

わたしたち兄(1つ上)と弟(1つ下)の3人が、とくに結束をしたわけではないですが、共通して守りたいものがあった。それは、まだ幼い弟と妹を守ることだけは徹底していました。

父が暴れるときは、一番遠くの部屋に避難させること。
暴力がいかないように、守ること。

父と母が鉢合わせると、ガラスの灰皿が飛び、父の顔面に直撃し血だらけの父。包丁を取り出し脅す母。寝ていると、夜中に家中のものが宙を舞い、わたしたちの目の前で壮絶な喧嘩が繰り広げられる。止めようとすれば、こちらが蹴飛ばされる。こどもが偉そうにするな、と罵られ、叩かれる。

それが、わたしたちの家族。わたしたちの親の姿でした。

そんな家庭環境の中、わたしたちは高校生になり、働ける年齢になると、父からは、お金を請求されるようになりました。でも、わたしだってやりたいことはある。それは、部活でした。当時、陸上部に入り、走り高跳びで県大会に行くこと。廃部寸前の陸上部をわたしの卒業までに団体入賞させること。その目標はどうしても諦めたくなかった。父からお金の援助は一切なかったし、高校生になったのだから、部活なんてやるな。ただただバイトしてお金を家計に入れろ。というのが父の方針。兄は、高校を通いながらバイトに専念し、バイト代は全額家計に。わたしは、部活が終わったあと、夜から夜中までバイトを入れて、部活用品のお金を稼ぎ、残りはすべて家計に。それでも毎日毎日、部活をやめろと3年間言われ続けて、父と顔を合わせることが心の底から嫌になり、朝は、みんなの朝ごはんと4人分の弁当を作った後、みんなの寝ている間に登校することが日課になり、あまり兄弟とも父とも顔を合わせることも少なくなり、自然と話さなくなりました。

とある日、父が酔っ払って帰ってくると、当時まだ小さかった弟の頭を突然蹴り飛ばした事件がありました。その瞬間に、兄とわたしと弟は立ち上がり、兄は父の胸ぐらを掴み、わたしと弟は下の子たち4人を別の部屋へ避難させ、しばらく父と兄の取っ組み合いが続きました。

「弟が何したんだ?なんで蹴ったんだ?」

そんなことを怒鳴りながら怒っている兄。普段、こんなに怒ることのない兄を、わたしと弟はキッチンからただただ、傍観していた。

わたしたちがずっと守り続けていた、下の子たちには同じ想いをしてほしくない。それが壊された瞬間だったのです。

傍観するわたしの心から湧き上がる感情は



(兄が負けそうになったら、わたしは父の背中を刺して殺す)




ただただ、この考えが、シンプルに、それだけを、ただ考えていた。

もう、こんな世界、終わらせてやる。




しばらくすると兄が父の上に馬乗りになり、謝れ!!!と怒鳴り、どうみても高校生になり大きくなった兄の圧勝だった。父は観念したのか、ゆっくり立ち上がり、それ以上暴れることはなかった。


沸々と込み上げてきた、本気の殺意が、ゆっくり冷めていき、心の底からホッとした記憶が今でも鮮明に覚えています。あのとき、兄が負けていたら、間違いなくわたしは刺していた。


何年かしたあとに、隣にいた1つ下の弟とそんな思い出話をしていたき、「あのとき、何考えてたの?」と聞くと、「兄が負けたら、刺すつもりだった」とわたしと全く同じ考えだったことがわかり、2人してキッチンに立っていた理由はそれだった。「自分たちは我慢できるけど、下の子に危害を与えた時点でもう我慢の限界だった」と言っていた。口数がお互いに多かった兄弟ではなかったけれど、考えは言葉にせずとも、ずっと一致していた。


今では、弟もこの世界を今、生きていません。
わたしが社会人になり21歳になった頃の突然の出来事、当時20歳になった弟は自ら命を絶った。あんなにも、優しかった弟が、なぜ。。。1ヶ月前に一緒にカラオケに行っていた。そして手帳には「エリカと兄とカラオケ」と書かれていた手帳を握りしめて、もっと、話を聞いたらよかった、もっとたくさん会えばよかった、と涙が止まらなかった。ここでは到底、伝えきれない、文字には表せない感情です。人は、突然会えなくなる事実を、知った。


彼のスマホの検索履歴の最後には

「財産を親に渡さない方法」

が検索されていた。

最後の命を絶つまで、弟は両親を恨んでいた。
どうして、こんなに、こんな家族に、なってしまったのだろう。



その事件の数年後、わたしは結婚が決まり、結婚式を開くことになった。その直前に、フィリピンにいた母は「お金がないから日本には帰れない」と父に伝え、そんな父から「お母さんがお金で困っていて日本に帰れない。エリカの結婚式にこれないから、来て欲しいなら、エリカがお金を出してくれ」という電話だった。当時、妊娠5ヶ月だったわたし。お金は、赤ちゃんのために使いたかった。結婚式のために使いたかった。あ、そうか。まだ、ここでも苦しめようとしてくる親だということを想定していなかった自分に腹が立ち、心から両親に呆れ、「なら、来なくて大丈夫」そう伝えて、電話を切った。


そのやりとりを見ていた、もう1人の弟がうつ病を発症したのは、ここからだった。大人になって、聞いたのは「大切な家族が1人失った中でも、やっと兄弟の中で幸せになれる人が出てきて、エリカが幸せになれるという結婚式なのに、お金がなくて結婚式に参列できないと言い放つ母と、結婚する本人にお金を払えという父を見て、どうしても僕の親は、こんなにも子供を苦しめることしかできないのだろう、と限界で、そのときに心が壊れた。」ということを、あとから明かされた。


その弟も今では、心療内科に通いながら、一生懸命生きています。

家庭環境がいかに、こどもの心を壊していく大きな要因になるのか。
親の言葉や態度がいかに、こどもの命に大きく関係してくるのか。

改めて、知って欲しい。


まだまだ、ここには書ききれていない出来事もたくさんあります。
わたしが高校三年生の時に、母はフィリピンに帰ると言っていたはずが、日本で他の男性との赤ちゃんを隠れて産んでいた事実。女の子を出産していた。
そして、その子さえも育児放棄し、フィリピンに逃げたこと。

18歳だったわたしは、「これ以上、苦しめる子供を増やさないで」と泣きながら訴えた。赤ちゃんに罪はないからこそ、許せなかった。母が隠れて住んでいた家に、わたしは仕事が終わった後、何度も何度も通った。その子(妹)が、心配で仕方がなかった。ある日、家に行くと、その子はいなくなっていて、母の育児放棄がバレ、その子は施設に預けられたみたいだった。それから、会うことは二度となかった。

どうして、そんなことが許されるのだろう。


親は勝手。
子供は親がいないと生きていけないこの世の中が


クソだと思った。


育児ができないなら
子供を苦しめることしかできないなら


容易く、子供を産まないでくれ。

と懇願した。


どうして、こんな大人がいて、許されるのだろう。


はやく大人になって、1人で生きていく。
親とは絶縁する。


それが、当時子供だったわたしの生きる目的でした。


綺麗事は、たくさん言えます。
5人の母になった今だからこそ

親は完全でも完璧でもない。


そんなことは痛いぐらい感じて、理解しています。

それでも、未来を担うのは
今の子供達なんです。いつだって、どの時代になっても。

子供を大切にできなければ
この世は終わるとさえ思っています。


もう一度言います。

家庭環境は親が作ります。
親が作る世界は子供に大きく影響しています。


だからこそ、


親が自分自身を整えることが大切であり、欠かしちゃだめなんです。

こどものケアを考える前に
自身のケアを考えて欲しい。


日本は「いじめられる側がカウンセリングに行く」
本来は「いじめる側にカウンセリングが必要だと思う」


本来は、親の方がケアが大事なの。
だからこそ、わたしは女性に、大人に、

まずはアプローチして整えるサポートをしていきたい。


もう、これ以上、苦しむ子供を増やすのは、やめようよ。



本来は


生きることが楽しいということを


伝え続けようよ


誰1人として輝いてはいけない人なんていない

みんなが

「心地よい世界」で

「輝くわたし」でいようよ


親として、大人として

伝え続けていきたい




株式会社 CHOCO
5児の母 | 櫻井エリカ


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