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人は見たくないものに蓋をする。
映画「ロストケア」を観た。
普段滅多にしないけれど
今日は早朝に家を出ていく夫のお弁当を
寝ぼけ眼で味もよくわからないまま作った。
しめじのバターソテー(胡椒を効かせて)
スクランブルエッグ(ケチャップをたっぷり)
小松菜と油揚げの醤油炒め
昆布と梅干しをのせたご飯
全部、熱々のままだったから少し不安で
蓋の上に保冷剤を2つ乗せた。
けれど、きっとあまり意味はない。
濃いめの熱い緑茶を水筒にトポトポ入れて
これでは舌を火傷するかもしれないと思ったので
氷をポチャンと3個入れたけど
これも、あまり意味はないかもしれない。
お気に入りの赤い大きなバンダナに
お弁当をくるんで
忘れそうになった箸を思いきり
バンダナの結び目に突っ込んで渡した。
寝起きのままパジャマで
夫のお弁当を作るなんて、年に1回あるかないか。
たまにはこんな朝もよかろう、と思い
夫を見送ったあとは自分の朝ごはんも用意して
眠いままモシャモシャ食べた。
二度寝しようかとも思ったけれど
せっかく早起きしたのだしこのまま起きて
なにか好きなことをしよう、と思い
先日、母が観たと言っていた「ロストケア」
という映画を観るためにNetflixを開いた。
母から、映画の感想をLINEで貰っていたが
その時は忙しかったし
へぇ、と思い、斜め読みして終わっていた。
一応、反応はしないといけないと思い
「考えさせられるね」と
うわべの言葉を送ったことを思い出した。
その「考えさせられる」映画というのが
映画「ロストケア」。
松山ケンイチと長澤まさみが主演の作品。
内容をざっくり説明すると
(観たい方はネタバレ注意)
主人公は認知症の父のために
離職して、バイトしながら在宅介護をしていた。
介護疲れから思うようにバイトへ行けず
生活に困って
ついに生活保護申請をするため役所へ行く。
しかし「あなたは働けますよね」
と役所の人に突き返され門前払いされてしまう。
生活はますます苦しくなっていき
父の容態も悪化し
どんどん認知も進んできたころに
「殺してくれ」と父に頼まれ、殺してしまう。
そのあと
訪問介護センターで介護士として働くようになり
自分と同じ境遇にある家族の要介護者(老人)を次々と手にかけていく。
やがて事件が明るみになり、
その罪をさばきたい検事と
「殺人」ではなく「救い」であると
主張する主人公との対話が繰り広げられていく。
爽やかな早朝に観るには少々ヘビーすぎた。
もう1度観ろと言われても、観たくない。
蓋をしておきたくなる内容である。
老老介護、ヤングケアラー、介護殺人
ニュースや新聞で頻繁に目や耳にする字面だ。
※日本で介護殺人は年間約30件~40件あると報じられています。
ひとごとだけど、ひとごとではないはず。
ひとごとにしてはいけない。
そもそも殺人はしてはいけないことで
許されることでは決してない。
けれど、在宅介護という
つらい状況に身を置きながら
なんとか1日1日を生きている
家族の存在があることはたしかだ。
介護されている本人も認知症や病気が進み
思うように身体が動かず
自分が自分でなくなっていくことへの恐れや辛さ
家族への申し訳なさなどの葛藤があるだろう。
そんな本人を目の前に
自分はなにもやってあげられない
と介護者は無力感に襲われることだってある。
一方で、こんなにやってるのに!と
不全感に襲われることもあるはずだ。
かつて、6年間闘病した父の最期と
映画のシーンが重なる場面もあって
ひさびさにオエオエ大号泣してしまった。
介護する側は
「介護はやらなければいけないこと」と
受け入れつつも
やがて心身ともに限界を迎えるときは来る…。
自分が介護する側になったら
どうだろうか、どうするだろうか
どう思うだろうか。
考えてみた。
私には老人ホームで生活している
90歳の祖母がいる。
アルツハイマー型の認知症だ。
月1回、15分の面会には必ず毎月行く。
まだ名前と顔は覚えてくれているし
会話もきちんと成立する。
急にタイムスリップしたかのように
昔話を現在進行形のように話し始めたりはする。
同じ話を何度もループして
終わりが見えないこともある。
急に帰宅願望が出てきて不穏になると
面会の15分が1時間のごとく感じる時もある。
とはいえ、きれいな施設内で、整った環境と
くつろぎやすいテーブルやソファー
なにかあればすっ飛んできてくれる
頼もしい専門職陣がいる。
祖母はきれいな身なりで、清潔保持されていて
管理された食事を食べ、あたたかい部屋で寝て
とても健やかな衣食住、医療、介護、人
に恵まれている。
私たちは「安全地帯」にいるまま
祖母と接することができている。
それだって祖母の機嫌がよくないと
たった15分面会しただけなのに
どっと疲れが出てくる。
母に至っては、
頭痛や倦怠感まで出現するときさえある。
そんな月1回、15分の面会には
「行きたい」というより「行かなければならない」
という義務感で動いているのが60%くらい。
残りの40%はおばあちゃん子だった
自分の本心から
おばあちゃんに会いたくて行っている。
それでも40%なのだから
そういう自分にも嫌気がさしてくる。
なんて冷たい孫なのだ。
いや、でも
毎月遠いところから15分の面会だけに
老人ホームにいる祖母に会いに行く孫は
そうそういないのではないか、と思う。
うん。
やはりおばあちゃんが好きだからできることで
続けられることなんだと改めて思う。
と言ってる私はずっと「安全地帯」にいる。
安全地帯にいるから
綺麗事を言えるのかもしれない。
映画の中でも何回も出てきた言葉。
「安全地帯」
もっともっと遠くの安全地帯にいる人たちは
自分には関係がないから
自分に火の粉はふってこないから
対岸の火事だから
綺麗事も額面通りのことも言うでしょう。
所詮、ひとごと、だから。
子どもは親の面倒を見るべきとか
施設に入れたらかわいそうという
世間の目もある。
福祉の専門家は偉そうに
お年寄りは地域で見守りましょうとか
認知症でも地域で暮らせるようにとか
平然と言っている、そう「安全地帯」から。
(時代は令和になれど
日本の福祉の形は家族主義なんです)
安全地帯から
教科書通りのことを説き伏せられて飲み込んで
介護をしないといけない生活。
どんなに悔しくて苦しいだろうか。
これって老人だけの問題じゃない。
障害者にも当てはまること。
インクルーシブな世の中にするために。
ノーマライゼーションな生活を。
地域で暮らそう、地域で見守りましょう。
果たして本当にそれでいいの?
家族の負担やケアは考えられてない。
私も、実のところ当事者家族のひとり。
一時は目も離せない、家を離れられない
いつ自死するか分からない状態の家族を
母1人で見守っていてもらったことがあった。
「家族が自死しそうなので会社を休みたいです」
なんて言えないから
仕事のある私は母のサポートすらできなかった。
ある日、母の体調が悪くなり
仕方がなく当の本人を置いて病院に行った。
帰ってきたら家の一部は壊れかけ
ある変な匂いで部屋は充満していて
ペットも危うく巻き込まれそうになっていた。
という最悪な事態になっていた。
慌てて救急車を呼んで命は助かった。
(本人もペットも今は元気です)
ODしないように薬も隠していた
企図しないように危ないものは全部隠していた。
しかし母も完全じゃない、当たり前だ。
母はそのあとずいぶん後悔していた。
あの時、病院なんて行かなきゃよかった。
つめが甘かった。
誰かに留守番で来てもらえたらよかった。
ううん、母のせいじゃない。
じゃあ本人のせい?それも違う。
メンタルヘルスに課題を持つ家族のために
気軽に休暇を取れるシステムや
メンタルクリニックや精神科、行政、サービス
見守ってくれる専門職の派遣など
あったらいいと思った。
そもそも自宅で障害者を見守る
家族へのケアやサポート、マニュアルなどが
そろっていたら違ったかもしれない。
実体験を知らない人たちや専門家と
対立したいわけでも
排除したいわけでも決してない。
けれどそうである側とそうでない側というのは
明確に違う。
自分事か他人事かの違いだけれど
その違いは果てしなく大きい。
安全地帯にいるから良いとか悪いとか
実体験があるから良いとか悪いとか
そんな単純な二元化の話でもない。
この映画を通じて思ったことは
何が正しいのか、立場が変われば意見も行動も180度変わるということ。
要介護者を殺した犯人が悪いのか、
介護者からすれば救いなのか、
答えはやっぱりわからない。
(これはやまゆり園で起きた事件と似ていると思います)
※決して犯罪を擁護してるわけではありません。
人を殺すなんてどんな理由があってもおかしい!
という対立と
分からないでもないよね、という共感の中で
何が正しいのか間違ってるのか
自分自身の信念や辞書をひっくり返されたような
そんな映画だった。
たまたま朝早く起きた午前中に
ふらっと観る映画ではなかったかもしれない。
けれど観てよかった。
明るくもないしオシャレでもないし楽しくはない内容だから
今メンタル不調の方にはオススメしません。
重くて重くてたぶん数日は引きずる内容。
介護や福祉、家族に興味関心ある方
福祉職の方は
観てみるといいと思います。(激しくオススメ)
長くなりましたが、ここまで読んでくださった
奇特な方がいましたら嬉しく思います。
ありがとうございます。