むいちゃいました の ありがたみ
お久しぶりです。
三日坊主な私は、苦しい夏を乗り越えて
秋になったこの頃に、また顔を出しています。
誰にもなれずにいるから、だからこそ
本当は自分を愛せたら
きっと、人生はとても楽しくなると思うのです。
わかっているのに なかなか 出来ないのは
思考の癖だと思うのですが…
私の今見ている世界は どんな風にもできる
つまり 自由 なのです。
それも わかっている のです。
なら、なぜそれが出来ないか…
それは【めんどうくさいから】だと思うんです。
丁寧な暮らし は憧れです。
でも 【めんどうくさい】
これに 取り憑かれたようになってしまう。
人付き合いも、失礼ながら正直に言うと
もう二度と会わないだろうな と思うような時の方が
案外と話が弾んだり、気兼ねなく話せるのです。
身近な人と うまく話せないのは
なにか失礼があったりすると、今後また会う時に
どんな顔して、なんの話しを、どんなトーンで
どんな服装で、失礼がないように振る舞わなければ!
と思い切り気構えてしまい、行く前から既に疲れてしまっている、という状態になっており…
人と会う=めんどうくさい
という図式が頭の中で出来てしまっているんです。
【めんどうくさい】が強いということは
完璧主義なのではないか?とある時思ったのです。
失敗することを恐れ、自分が完璧な状態でないと
とても不安になってしまう。
実際、人付き合いについても、万人が私との関係性において完璧を求めている訳では無いのです。
なのにも関わらず、疲れきってしまう。
もっともっと 適当でもいい。
嫌われる勇気という、本の題名のように
生きて行けたらいいのに。
そう思いながら、甘栗むいちゃいました を食べる。
こんなにこねくり回した考えをしているのに、
はなっから 皮むき済 なものを食べちゃう。
まさしく【めんどうくさい】でしょうから、貴方のかわりに やっておきましたよ!です。
むいてくれて ありがとうございます。
せめて、お礼はちゃんと言っておかないといけません。
人付き合いも どなたかが ただ こちらを向いてくれるのを待っていたのかもしれません。
思考の癖は こんな所にも現れるのでしょうか。
開き直って、変わり者のワタシと
仲良くなって頂ける方がいましたら、嬉しいです!
こうして、むきます!! という事を表明して
終わりにしたいと思います。
ちなつ。