🎨📄: 武者小路実篤
東京都調布市に武者小路実篤の邸宅があった。
今は調布市「武者小路実篤記念館」となっている。
まだ、記念館となる遙か前、初めて実篤先生にお会いしたのは中学3年の時であった。
一見、校倉造りを思わせる家屋の玄関を入るとすぐ目の前にピカソの油彩画が飾られていた。一番西側に位置した広い応接室には光輪のある大きな円空仏が目立っていた。
応接室に通された時、先生は背筋をピンとして色紙を書いていた。
そして先客が居た。どこぞの土建屋の社長がもみ手をしながら色紙が仕上がるのを待っていた。
一字一字丁寧に書きながらも、一息ついた時に笑顔で子供のキータンに話しかけてくれた。子供ながらにも静謐な空気と雅で上品なオーラを感じていた。
こんな事を書いてはいけないのかもしれないが、先生の発する雰囲気と色紙の仕上がりを待っていた社長との人品の格差に違和感を感じた。全く異質な存在が同じ空間に存在している事を不安に感じた。
後日、この第一印象を、お孫さんの武者小路篤信さんに話したところ、
「じいさんは、誰にでも請われれば書いてあげていたね」
新しき村でもそうだったのだろう。結局、先生の書いた色紙や描いた絵が資金となってしまっていた。人の為に尽くす、という言葉を地で実践した方であった。
だが、ただ一人、請われても絶対に揮毫しなかった相手がいた。
田中角栄に対してであった。
コンピューター付ブルトーザーとあだ名され、飛ぶ鳥を落とすほど強い政治的権力を持っていた角栄に対して絶対に揮毫しなかった。
理由は知らない。
世間的には、田中角栄に関して賛否両論がある。
しかし、今日の日本の現状を鑑みたとき、実篤先生は正しく田中角栄という人物を評価していたのかもしれない。
顔真卿を学んだと思われる作為の無い文字は、一見誰でも書ける様に見えるが、真似るのは非常に難しい。作為が入ってしまう。
「顔」という字がある。先生はご自身の顔にコンプレックスを持っておられた。その事について書いた生原稿もあるが公開は差し控える。
人の行いはその人の顔を造る。私がお会いした時、真摯な姿と上品な印象しか残っていない。
先生が永眠された後、調布の自宅やピカソ、多くの先生の作品は東京都と調布市に寄付された。
お孫さんの篤信さんは、銀座の松坂屋裏のビルで小さなギャラリーを経営していた。
私はよく遊びにいっていた。
ある日、ギャラリーに行くといつも明るい篤信さんが塞ぎ込んでいた。
実篤展の企画の為、武者小路実篤記念館から数点の絵画を借りる申請をしたが却下された、との事。
私もこれには驚いた。
無償で寄付されたにもかかわらず、一度入手すれば後は無視、の様な態度の記念館に憤りを感じた。
篤信さんとの思い出も多々あるが、もう逝かれてしまった。
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