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笑って語れるように準備する

最期の場面


最近の死生観カフェ会で出たお話から、
とある方の最期のご様子や
お葬式の話になった。


自分は最期、
どうありたいかを考えて行動し、
整えて、家族にも大切なものを
きちんと残して、今回の人生を
終えたというある方のお話。

本当に素晴らしくて、感激。
しみじみと自分に置き換えて
考える時間を持てた。

こういう風に
生き方についてのお話を
様々な方から伺えることが、
私の人生の糧となり、
生き方の幅を広げてくれている。


そしてそれを
こうしてお伝えすることで
皆さまの『生きる』を考える
きっかけになっていたら
嬉しいなぁと思っている。

お花きれい

笑って語れる最期がもたらす幸せ


この「笑って語れる最期」は
残された者たちを
幸せにしてくれる。

たくさんのご家族を見てきて、
そして自分の父の看取りを通して
行き着いた答えの1つである。

ご本人が辛く、苦しく、
後悔しながら
人生を終える場面を見るのは、
その周囲も辛い。


ご家族やご友人はもちろん、
会社関係など、その方の
社会的コミュニティなどで
関わった方々にも、

そして私たち医療者にも
様々な「辛さ」が残る。


当時は病棟にいた私。
亡くなって退院された患者さんや
ご家族のその後について、
ご様子を知れる事は、ほぼない。


時々、なじみのケアマネさんや、
訪問医、退院支援チームの看護師が
ちょっとしたエピソードを
教えてくださる事はある。


それは、ご家族側が
後日そのスタッフたちに
語ってくださったときだけ。


そして更にそれが
私のところに届くためには、
その後いくつもの関門を
突破しないと伝わってくる事は、
まずない。


当時はそんな風だったので
「ご家族、どうしてるかなぁ…。」と
時折思いを勝手に馳せていた。


なぜ大切か

前置きが長くなったが、
この「笑って語れること」


これがなぜ大切かには
いくつもの理由がある。

今日はそのうちの2つを。

まず1人の人間の死というものには、
大勢の人間の人生や生活に
影響を及ぼす。

たとえ親類のいらっしゃらない
孤独に死を迎えた方でも
同じことが言える。

なぜなら、私たち医療者や警察、
役所の方などが関わるから。

もちろん影響の受け方や程度は
人それぞれではあるが。


家族・友人・同僚や仲間が
いらしたらなおさら影響は大きい。

有名人になればなるほど、
社会にも広く影響がある。

生き様、特にかっこよさや
富や名声など、いわゆる
"派手な"部分があればあるほど
周囲に影響を与える度合いは大きい。

当然のことである。


だけど、そんな誰もが
体験するはずなのに、
そしていつ来るかわからないのに
人はこの死について、
特に"自分の死"について
考えたり、コーディネートしていると
いう人はまだまだ少ない。


自分の死によって
周囲にどんなことが
起こりうるのか。

ちょっと考えようとしただけで
恐怖を感じてしまう方が
多いのではないだろうか。


そしてそれを考えるのは
例えば
"余命の存在"を初めて感じた時に
やってくる。
そんなタイミングであることが
圧倒的に多い。

私はそれを大学病院の
病棟で見てきた。



そして感じたのは、
そこから気づき、考え、学び、
コーディネートをし始めるのは
体力も気力も時間も
足りないということ。

目の前にある症状や治療、
生活に追われ、もっともっと
丁寧に深く掘り下げたい
自分自身のことや大切な家族の事、
愛を注ぎたかった
周りの大切な物事に
向き合う余裕がない。


この事実を
健康で動けるうちから
知っておくこと。


そして自分のこととして
考えて行動することが
"何よりも"大切と私は考えている。

ジャーナリングに次ぐジャーナリング


少し想像してみて欲しい。
今、自分がいなくなったら
家族はどうなる?
仕事は?お金は?
なにより自分、
ちゃんとやりたいことやった?

… ほぅら…怖いでしょ? (←言い方)


怖くて不安になると思う。
無理もない。

コーディネート案件があまりに多く、
途方に暮れる人がほとんど。

だけど私は
それをあきらめさせたくない。


途方に暮れてる場合じゃない。
いつ死ぬかわからないのだから
私たち。


もうすでに、皆さまが持っている
"死生観"を活かして、どうやって
自分で生きることを実現していくかを
日々コーチングしていくのが
私の役割使命だと認識している。


そして2つ目の理由は、
この"コーディネート"に
深く関係する。



最終的に笑って語るためには、
そもそもの「語ること」に
慣れていないとうまくいきづらい。


うまくいかないわけではないので、
上手に語ろうとしなくて良いのだが、
まずこの「語る」ことに
抵抗を感じる方が多い。


自分の思いや価値観や
目指すところは何かというのを
医療者はおろか、家族や
親しい人にさえ
語れないという方が多いのだ。


親しい方だからこそ
言えないこともあると思うが、
かといって適度な位置にいる
相談できる人や場所は
用意しているだろうか。

これもまだ
社会の仕組みとして
行き渡っていないと感じている。

誰もが困ったときに、
こういう語りができる場が
生活に馴染んでいない。

なぜ馴染んでいないかと言うと、
それを必要・重要と思えるほど
「皆、考えていない」からである。

だから馴染まないというのは
一因としてあると感じる。


政治なんかと一緒で
「だってそういう場所、
作ってくれないんだもん。」
「学校で教わってないし。」
「だったら聞いてよ」(←聴きますので
連絡ください)と仰る人もいる。


あと、あるあるなのは
【怖い・縁起でもない】ね。


そういう場を必要とし、
作るために動く人を選ぶのが、
まず一歩。

それを選べるようになるための
「自分の意見」を
持てるようになるのが
第一歩のための助走なのだ。

自分の意見を持って語ったり
選択していったりするために
必要なのが「内観と語りの訓練」

私はそう考えて講座を開催している。


ハンナと語ろう


この死について考えて、
自分を語れるようになっておくと、
死ぬ間際に慌てふためき、
後悔する確率は激減する。


それは患者さんと
ご家族が教えてくれた。
そして父を共に見送った
母や弟が教えてくれた。


自分を語れさえすれば
正直、コーディネートは
できる人がやってくれる。


それが病院でいう例えば
緩和ケアのチームだったりする。
うちの家族で言ったら私。

私経由で父と医療者と家族を
ちょうど良い塩梅に
循環させたと自負している。


「自分がこうありたい」を
表現してくれたら、専門家たちは
動きやすいのだ。


好き放題、自分というものを主張して
時に煙たがられていた父が良い例。
実に助かった。


例えば仕事や、
今日の夕飯の献立に
置き換えて考えてみよう。

今日の夕飯は何がいいか聞いたら
「なんでもいい。」って
言ったからハンバーグにしたら
「なんかこれじゃない」と
言われたときのモヤモヤ感。

だったら食べたいものはっきり
言ってよ!と、ハンバーグなら
その後も反論やリカバリーが利く。

今日の夕飯なら、今後は予防策として
あらゆる手段が興じられるけど
死に関してはそうはいかない。

その後のモヤモヤ…
どうしてくれるんだい?

大切な人たちに
そう言わせないよう、
そしてモヤモヤしたまま
その後の人生、悔いを携えたまま
生きなくて済むよう

考えて語ることを始めた方が
断然いいと、
私は信じて疑っていない。


結果、笑って語る。


その後、うちの家族はというと
笑って暮らしている。

その後というか、もうなんなら
ご臨終の場面やお葬式なんかも
ものすごく和やかだった。

和やかが過ぎて、家族も
そして主治医の先生や看護師も
笑ってしまっていた。
側から見たら不謹慎極まりなく
見えてしまうかもしれない。

だけど私たちは和やかだった。
霊柩車に乗り込み
あんなに嬉しそうに主治医に
お別れのお手振りをする
妻(←私の母ね)も、そういない。


その話はまた
追々書いていこうと思う。

うちの家族がヘンなのかなとも
多少は思ったが、
これは他の和やか例の
患者・家族を見ていても思うし
今回お話しを伺えたご家族も
そうだった。


自分で自分を表現して生きること。
それを周囲は尊重して理解を示すこと。
これが何よりも本人と
その周りの大切な人たちの
人生を後悔させないことになる。


あなたも考えて
語る訓練はじめよう。


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