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その人には見えている風景。田中一村展 東京都美術館
11月某日 田中一村展 東京都美術館
金曜夜の夜間開館。仕事を1時間早く切り上げて見にいった。
展示は一村、子供の頃からの絵から始まる。これは神童だと感じる絵ばかりだ。
その後に続く若い頃の絵は、輪郭がはっきりしており力強い。個人的にはこういうはっきりした力強い絵は好きなのだが、、、みっちり画面に描き、余白が少ない。的がはっきりしない印象がある。見えるものを描く、全てを。密度がある。こちらに緊張感を持ってしまうような。見てくれ、という印象を持たなくも。。。ない笑。
川端龍子の「青龍社」の展覧会に《白い花》を出品し入選。これは軽さがあり「抜け感」があってこちらに緊張感を与えず洗練されている絵だと思う。美しいと多くの人が思う絵だ。しかし本人はこの後、龍子と決裂してしまうらしい。
天才ゆえの自分の絵と信念が強い画家だったのだろう。それは描きすぎる、ということなのかなと思った。
千葉時代の絵も、その登場する人が誰かわかってしまうほどと説明があったように、こういう風景画の場合普通は人まで緻密に書かないと思うが、一村は描き切る。
この人は写真も好きだったようで写真の展示もいくつかある。もしかしたら彼の目は全方位にピントが合うカメラのようだったのかもしれない。自分の目、おそらく凡人よりももっと見える目で、全部写し取りたい、描き切りたい。葉脈も人の顔も花も枝も全部描く。写真よりも写しとっている。
例えば、花を手前に大きく配置し、背後にその土地ならではの風景を入れる。絵としてみれば何というか盛り込みすぎな絵ではある。写真だったら手前にピントがあってしまうので背後はボケて成立しないが、一村は遠近感がない描き方で、背景にもピントがあっているように描き、立体感もその中に入れつつ、そしてその絵には余白などない。見ている側はどこに視点があるのかわからないが、迫力がある。ただ抜け感がないので圧力のようにも感じられ、それは昔からの彼の画風であるし、彼の目にしか見えていない風景だったということか。
ストイックな絵の仙人みたいな人だと思う一方で、帯や日傘など人々に差し上げるものにさらさらっと描いていたりもして、それがなんとも洒落ている。いまも個人蔵と書いてあった。色褪せたりしているが、大切にされていることが偲ばれた。
奄美大島に行ってもその絵の密度は薄くなることはなく、より深まっていく。最後の展示室の作品群はその中でも大判で迫力あるものばかりだ。
南方の生い茂る枝、葉、光、が彼の元々あった画風を生かすことになったように思う。自分の目に見えているものを隅々まで描き切りたい意欲か。あの絵も、「石を見て欲しい」と描いてあったりする。石がみっちり丁寧に描かれている。
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この人には見えているものの情報量が他の人よりも多かったのだろう。絵を通してこちらにも彼の視点が伝わるような気がする。なにが主題かわからなくなる感じもあるが、そこにある自然を描き切った絵は迫力があった。
何かに焦点を合わせたり構成だとか余白だとかそんなことではなく、見えているものの美しさや力強さを描き切っているのが今もかっこいい絵だと思われる理由なのかも。色々と圧倒されて閉館時間直前に退館。
最後、グッズコーナー。最近、絵葉書と一緒にフレームも売ってるのとてもいいと思う。変わり種では、アダンの実の形をしたバッグに笑ってしまった。買わんけど、こういうグッズ楽しいよ。楽しめるよ。複製?の絵が33万円とかで思わずメガネ外して(老眼なので)肉眼で確認してしまった。グッズ売り場で友達に偶然出会したが、絵で気持ちが満たされているだろうなって思って挨拶だけ。私は上野で一人、展示を反芻しながらビール飲んで帰りました。
そういえば約20年前に奄美大島に行った。その頃は折り畳み自転車を旅先に運ぶことがブームだったのだけど地理をいまいち調べずに行って、アップダウンの激しい奄美大島に驚愕して(街でも中学生に抜かれるぐらいの脚力しかない)とにかく疲れた。田中一村もよくわかっていなかった時代なので、今度行ったら寄ってみたいね…