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ひとつ屋根の下。

家族以外のひとを家族のように思うようになったのは、大学を卒業して間もない頃だった。

この頃ツイッターの存在もあって、気のおけない仲間や、ことばで惹かれ合う友人がかなり増えていた。ことばや文章には思った以上にそのひとが出るもので、文章を通じてできた縁はなかなか途切れることはなかった。そして、その人たちのことをすごく、信じている自分に気づいた。

そこまで共通点のない、長く一緒にいたわけでもない、とある4人のことを「一軒家」と呼んでいる時期があった。ほんとうに、同じ一軒家に住んでるような安心感があった。「なんとなく、でも確実に、伝わる何かがある」という感覚がたしかにあった。。その事実は、過ごした時間や血のつながりと同じくらい、わたしを救った。


こうして一軒家からはじまったわたしの大好きなひとたちは、いつのまにか増え、「東京の家族」になった。東京という大きな街で、一緒に生きている、家族。


一軒家、なんて言いながらわたしたち4人はバラバラになった。その一瞬が交差したのが、下北沢という街だった。なんだか今でも、ひとつ屋根の下にいるような気分でいる。


みんなのことを「家族」だって思ったのも、今もそれが続いているのも、
「屋根」があるからなんじゃないかと思う。目に見える屋根でも、見えない屋根でもいい。わたしたちをゆるやかに束ね、守ってくれるもの。

わたしが生まれたときに当たり前にいた、お父さん、お母さん、お姉ちゃんふたり。これらは物理的な「ひとつ屋根」の下で暮らしていた、家族。「血」というわかりやすい繋がりの、家族。(この、従来の「家族」ですらひとつに括ることなんて不可能なので、わたしの場合を書いています)


じゃあ「一軒家」のみんなはなんだったのか。実際にひとつ屋根のしたで暮らしてはいないけれど、上述の「なんとなく、でも確実に、伝わる何かがある」という「安心」こそが、わたしたちの屋根だったのだと思う。

屋根は目的のこともあれば、趣味のこともあるかもしれない。どんな屋根でもいいんだと思う。
家族ごとの、いろんな、ひとつ屋根の下。

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最近はいろんな家族のかたちを模索しているひとが多いようだから、多分いろんな取り組みが出てくることだろうと思う。

でも、迂闊にこのことばを使ってしまいたくない、気持ちもある。
簡単じゃないよ、「家族」ってね。

友達のようでいて 他人のように遠い
愛しい距離が ここにはいつもあるよ
( 家族の風景 / ハナレグミ )

とか言いながら↓


うれちい