第8回 沢渡果穂のさいごの風景
洋介は断るつもりだった。
マリアの時と同じ結果になるという予感があった。でも、武はそうは考えていなくて、今回はうまくいくと断言した。
というわけで、洋介は武の家にいた。ダイニングルームでテーブルについていた。向かい側に果穂がいる。武はお誕生日席に座っていた。降霊術でもはじめるのかっていう配置だ。自分の家なのに、武は白いスーツを着ていた。
果穂は地味な女だった。それだけじゃなくて、会話をしていても、ずっとテーブルの上を見つめていて、武が話しかけた時だけそちらを見た。
「そんなに堅苦しく考えなくていいんだ」
自分がリラックスしているのを示したいのか、武は口元に笑みを浮かべてみせた。でも、目が笑っていない。
洋介は言葉を選んで慎重に言った。
「武がやろうとしていることは悪いことではない。ただ、物事にはちょうどいいタイミングというものがあるだろ?」
武はうなずいた。
「もちろんだ。今がそのタイミングなんだよ。果穂もそう思うだろ?」
果穂はおずおずとうなずいた。緊張している時の癖なのか、しきりと鼻から空気を吸った。すすり泣きをしているように聞こえた。
洋介はできるだけ穏やかに言った。
「おれの経験から言うと、あまり緊張していると記憶の中に入りにくいんだ」
武は目の下をぴくっとひきつらせてから、大きなため息をついた。
「じゃあ、お前はいつもそういう風に仕事をしているのか? つまり、客が緊張していたら日を改めるのかってことだよ。ちょうどいい日がくるまで通い続けるのか。それじゃ商売にならないだろう」
「それはそうだ」
「そういう時はどうするんだ」
「緊張をほぐす方法を試す」
「じゃあそれをやってくれよ」
「それは構わないけど、やっぱり本人の意思というのが重要なんだよ」
果穂が「やっぱりやめる」と言ってくれれば少なくとも今日は気の進まない仕事をせずに済む。でも、果穂はうつむいていた。
「私は……」
そこで言葉が途切れた。長い間考えて、ようやく顔を上げた。
「今日やります」
テーブルの上に視線を落としたまま呟いて、ちらっと武を見た。武はほっとしたような顔をした。
洋介は諦めて立ち上がった。
「わかった」
テーブルを回り込んで果穂の脇に立った。
果穂は体が硬直していた。
武が立ち上がった。
「ここでいいのか? リビングにソファがあるぞ」
「そっちのほうがいいな」
リビングにいくとソファで老婆が眠っていた。武は彼女の肩にそっと触れた。
「この部屋を使いたいんだ」
老婆はまだぼんやりとしていたけれど、うんうんとうなずいた。武は老婆が立ち上がるのを手伝って廊下に送り出すと、二階に向かって怒鳴った。
「かあちゃん! しばらく下にこないで!」
「わかったよ!」
二階から母親が怒鳴り返した。
武は部屋の扉を閉めると、リビングのカーテンも閉じて部屋を薄暗くした。それから両手を叩いて、ぱんっと音を立てた。
「じゃあ、やるか」
果穂をひとり用のソファに座らせて、自分は三人用のソファに陣取った。洋介は果穂の前に立った。果穂は背筋を伸ばして身動きもしなかった。もちろん視線は合わせない。
「背もたれによりかかって」
洋介が指示すると、果穂は言われたとおりにした。それでも肘掛けを強く掴んでいた。指の力を抜いてゆっくりと呼吸をするように言った。
「目を閉じて、頭の中で呼吸を数えて」
果穂が息を吸うたびに大きな胸がゆっくりと上下した。気になって仕方がなかったが、じっくり眺めるわけにはいかない。そう、ある意味、洋介自身も意識を集中する必要があるってこと。
両手の指先に意識を集中した。指先にちりちりした電気的な刺激を感じた。目には見えないんだけど、なんらかの力が発生しているのは間違いがないんだ。その感覚を維持しながら心臓の鼓動に意識を集中した。周囲の雑音が小さくなっていき、果穂しか見えなくなった。
こめかみに触れると、果穂はびくっと体を震わせた。洋介は「大丈夫だ」と囁いた。果穂がうなずいたのを確認してから、目を閉じて額を合わせた。果穂は汗をかいていて、額がぬるぬるした。
深い霧が見えた。
しばらく彷徨った。やがて風景が見え隠れしはじめた。
住宅街だ。古ぼけた家と家の間には庭と呼べるほどの敷地はほとんどなくて、詰め込めるだけ詰め込んだ印象だ。その中にある一軒の家にたどり着いた。この界隈の他の家と同じく、古ぼけていて、記憶に残るような要素はなにもない。門を開けて中に入るとすぐに玄関がある。玄関先に鉢植えのアロエが置いてあって、塀に沿ってヨモギやオナモミが無造作に伸びていた。
ここが沢渡果穂の生家だった。
どことなく薄暗い。言うまでもなく、果穂の心境が現れている。それを見ている洋介も気分が重くなった。
果穂は家に帰ってきたところだ。玄関のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。中に入ると廊下に三十代後半くらいに見える女が立っていた。顔も体も丸くて、おばさんパーマをかけている。果穂の母親だ。玄関脇のトイレから出てきたところで、エプロンで手を拭いていた。
「おかえりなさい。お母さんね、これからまた出かけるから。ご飯は作っておいたから後で食べるのよ」
果穂は「わかった」と返事をした。母親は「いい子にしているのよ」と言ってエプロンを外した。いつも言われていた。しかし「いい子にしている」のが具体的になにをすればいいのかわからなかった。
洋介はそこで見るのをやめた。
「これは目的の風景ではありませんね」
果穂は唇を噛んだ。
「私、どうすればいいのかわかりません」
「……そうですね。これは無意識の力だから、あなたが自分の意思で隠しているとは言わないですけど、ブロックをかけているんです」
果穂はうなずいた。
「そうかもしれないけど……」
これ以上なにかを言っても、やり方がわからないのだからどうにもならない。洋介は「もう少し見てみましょう」と、再び額を合わせた。
しばらく霧の中をさまよった。やがて、さっきとは違う風景が見えてきた。果穂は茶の間にいた。さっきとは違う家だ。掃き出し窓が開いていて、濡れ縁があって、小さな庭がある。朝顔が植えてあって、棒に蔦が絡まっていた。ふわっと吹き込んだ風を受けてレースのカーテンが膨らんだ。
果穂は折りたたみ式のちゃぶ台で勉強していた。中学一年生の教科書が畳の上に積んである。テレビを観たいのを我慢していた。電気代がかかるし、両親が働いている間にのんびりするのは申し訳なかった。
やがて母親が帰ってきた。以前よりも少し老けていたが、ぽっちゃりとした体型や垢抜けないパーマは以前と同じだった。スーパーのレジ袋を台所の床に置くと「ふうぅ」とため息をついた。それから果穂が勉強しているのを見て、「いい子にしていたわね」と言った。
「これも違う」
洋介は額を離した。ハンカチで汗を拭った。果穂は眉間に皺を寄せて目を閉じたまま動かなかった。
「もう一度……」
洋介は自分にそう言い聞かせた。深呼吸をして、果穂と額を合わせた。果穂の意識の中に潜っていった。
姿見に乳房が映っていた。ぽっちゃりとした体型ではあるが、かなり見応えのある光景だ。果穂は自分の胸を持ち上げた。中学一年生ながらGカップあった。
「成長期だから仕方がないわね」
母親はそう言っていた。しかし、果穂にとっては「仕方がない」では済まなかった。クラスの男子から陰で「巨乳」というあだ名をつけられているのに、気づいていた。教師までが胸を盗み見ていた。
女友だちはうらやましがっていた。胸が大きいのを嫌がるのは贅沢だと言われていた。いつもいやらしい目で見られる気持ちがわからないんだ。そんなことを言えば自慢していると反感を買うのがわかっていた。だからどうにもならなくて、ただうつむいていた。家に誰もいない時、鏡の前で裸になっては肥大し続ける乳房を観察していた。
呼び鈴が鳴った。果穂はびくっとした。
「うわっ、うわっ、うわぁぁぁぁ!」
現実の果穂が叫び声を上げた。
武がソファから飛び上がって果穂に駆け寄ると、頬を叩いた。果穂は目をかっと見開いた。武は果穂の頬を撫でた。
「大丈夫だ。落ち着け」
「武、あんた、なにやってんだい!」
階段をどかどか踏みならしながら母親が降りてきた。武は慌てて廊下に顔を出した。
「なんでもないよ、かあちゃん」
「すごい声がしたじゃないか」
「治療をしているんだ。いいからあっちにいっててくれよ」
母親はなおもなにか言っていたけど、武は受けつけなかった。とにかく放っておいてくれ、と追い返した。
「なにがあったんだ?」
武が聞いた。洋介はハンカチで汗を拭った。
「たぶん、一番深いところに到達したんだ」
「じゃあ、もう治ったのか?」
「いや、到達したところで拒絶された」
果穂に言った。
「続けるかどうかはあなたが決めてください」
果穂はぐったりとしていた。ぼんやりとした顔で武を見つめた。しばらくして、ゆっくりと口を動かした。
「お願いします」
洋介は眉間に皺を寄せて唸った。しかし果穂は姿勢を正して目を閉じた。やめるわけにはいかないってこと。深く息を吸ってから、果穂と額を合わせた。
霧の中に入っていく。
呼び鈴が鳴っていた。
果穂は玄関扉についている魚眼レンズを覗いた。女が立っていた。背が高くて、ややがっちりとしている。一目で訪問営業とわかるぱりっとした黒いスーツを着ているんだけど、これがよく似合っていた。果穂はチェーンをつけたまま扉を少し開けた。香水の甘い匂いがした。
女は化粧品の訪問販売をしていると言った。わざとらしい営業用の高い声だった。スタイルに魅力を感じていただけに、ややがっかりした。「結構です」と、扉を閉めようとした。女は扉の隙間に手を差し込んで、それを止めた。もう少し粘ろうってわけだ。果穂はおずおずと言った。
「誰もいないんです」
女は扉の隙間から囁いた。
「あなたすごく綺麗な肌をしているわ」
「肌、ですか」
「女の価値は肌で決まると言ってもいいわね。テレビに出ている人たちだって、みんな肌を綺麗に見せようとして涙ぐましい努力をしているのよ。好きなアイドルとか女優さんは、いるの?」
果穂は返答に詰まった。テレビはほとんど観ないんだ。それでもなにか答えなくてはいけない気がして考えた。思いついたのは、少し前にテレビで観た小津安二郎の「秋刀魚の味」という映画だった。
「……岩下志麻」
映画の中で岩下志麻は笠智衆の娘を演じていた。白と黒の画面の中で岩下志麻は輝いていた。女は目を輝かせた。
「素敵な女性よね。私も大好き。あなたもああいう風に素敵な女性になりたくない?」
果穂はうなずいた。すると女は持っていた小さなスーツケースを開けて扉の隙間に近づけた。
「見えるかしら。私、化粧品をたくさん持っているのよ。別に買う必要はないのよ。おとなになったら買って欲しいけれど、少なくとも今日は買わなくていい。あなたに少しお化粧をしてあげたいの。自分がどれだけ綺麗になるのか実感してみて欲しいのよ」
「でも私まだ中学生だし」
そう言いながらも果穂は扉の隙間に顔を近づけていた。女は果穂が見やすいようにスーツケースを傾けた。
「関係ないわ。将来、自分がどれくらい美しくなれるか、ちょっと試してみるだけよ」
母親が帰ってくるのではないか、という不安が脳裏をよぎった。でも、その可能性は低かった。母親は仕事に出ていて、いつも夜の七時くらいまで帰ってこないんだ。
「緊張するのはわかるわ。私もそうだったから。でも、自分を変えるってそういうことよ」
最後の言葉が果穂に魔法をかけた。いったん扉を閉めてから、チェーンを外して女を玄関先にいれた。女はスーツケースを廊下に置いて、框に腰を下ろした。
「ああ、やっぱり素敵な肌をしているわね。お母さんもそうなのかしら」
「そう、でもないです」
「あなたはとても綺麗になれるわよ」
そう言って女はスーツケースの中身を見せた。そこにはたくさんの化粧品が詰まっていた。果穂は無意識にそれに触れようとして、我に返った。
「今は誰もいないので……」
「大丈夫よ、ここで済むから」
そう言ってファンデーションのケースを手にした。
「目を閉じて」
言われるままに目を閉じた。女の手が頬を撫でた。果穂は緊張して体を硬くした。
「大丈夫だよ」
声が変わっていた。驚いて目を開けた。目の前にある顔は化粧でうまく隠されてはいたんだけど、額の丸みが少なくて、顎の輪郭がややごつごつしていた。
――男!
叫ぼうとしたけど、手で口を塞がれて「むぐぐ」という、くぐもった声しか出なかった。男の力に抗えなくて、たちまち組み伏せられた。
ハンカチを口に詰め込まれた。「う」と吐きそうになった。スカートをまくられ、パンツを脱がされた。男は自分が履いていたスカートをまくり上げた。トランクスを下ろすと勃起した性器が現れた。すでにコンドームを装着してあった。
男がのしかかってきた。まだ濡れていないあそこに挿入した。叫んでも、ハンカチと男の手で喉の奥に押し返された。
男は五分ほど腰を振り続けて、勝手に果てた。果穂から体を離すと、慌てた様子で、コンドームをつけたままトランクスを穿いた。スカートを穿いて、スーツやかつらの乱れを直してから、果穂の口の中からハンカチを引っこ抜いてから、出ていった。
果穂は仰向けになったまま呆然としていた。眼球すら動かなかった。しばらくしてから、ゆっくりと体を起こした。血がつかないように慎重に洋服を脱いでから、裸のまま、まずは雑巾で廊下を拭いた。
痕跡を消してから洋服を洗濯した。洗濯機が回っている間にシャワーを浴びた。涙がぼろぼろ溢れた。声を押し殺して泣いた。
清潔な洋服に着替えた。洗濯機が止まるまで、脱衣所に突っ立っていた。脱水が終わってから、洗濯物を干した。風が吹いて洗濯物が揺れた。
母親が帰ってきた。
「洗濯までしてくれたの? いい子ね。でももう夜なのに」
果穂は笑って誤魔化した。