第12回 はじまりの風景
本屋で立ち読みをして時間を潰し、夜の七時過ぎにマンションにたどり着いた。
キッチンで真理子が料理をしていた。
洋介は部屋着に着替えてリビングで相対性理論の続きを読んだ。
手から本が滑り落ちる感覚で目が覚めた。いつの間にか眠っていた。本を拾い上げて、照れ隠しのだらしない笑みを真理子に向けた。真理子はダイニングテーブルに料理を並べるのに集中していて、洋介のほうを見ていなかった。
ダイニングにいった。食卓には、サラダと刺身、味噌汁と冷凍食品のチャーハンが並んでいた。
洋介はきょとんとしてしまった。
そう。食事はひとり分しか用意していなかった。
真理子はひとりで食べはじめた。食べ物を口に運んで、噛んでから飲み込む。その動作を続けているだけで、味わっている様子はなかった。
洋介は洗面所に逃げた。
鏡に映った顔は土気色になっていて、思わず目を逸らした。
シャワーを浴びながら、何度も深呼吸をした。顔をぱんぱんと叩いたり、拳を振り回したりした。
浴室を出て、鏡を覗いたけれど、顔色はたいしてよくなっていなかった。
ダイニングでは真理子がまだ食べていた。洋介は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、リビングのソファで飲んだ。腹がぐうと鳴った。
やがて真理子は食事を終えて、後片づけをして部屋を出ていった。浴室に入っていく音がした。
洋介は冷蔵庫から新しい缶ビールとカスピ海ヨーグルトを取り出した。リビングに戻って、ヨーグルトを食べた。
洋介がビールを飲んでいると、洗面所の扉が開いた。真理子はリビングには戻ってこないで、そのまま寝室にいった。
洋介は飲み続けた。やがて酔いが回ってきてふらふらになった。
「なんだってんだよ」
ビールの缶を握りつぶした。立ち上がろうとして足がもつれた。絨毯の上に倒れ込み、「あっはっはー!」と笑った。楽しくもないのに、笑い声だけは楽しそうに響いた。
しばらくしてから、起き上がった。
寝室にいくと、電気が消えていて、ベッドの中で真理子が横になっていた。洋介もベッドに潜り込んだ。真理子の全身から緊張が滲み出ていた。
――あの頃は、こんなことになるとは考えてもいなかったな。
小学六年生の頃の話だ。当時は浦和に住んでいた。その頃は祖母もいた。血のつながりはなかったけれど、本当の孫のように接してくれた。
ある日、洋介は風邪をひいた。
学校を休んで、ベッドで横になっていた。祖母は温かいミルクを運んできたり、おかゆを作ったりしてくれた。それから、まだ熱があるか確認するために額をくっつけた。
その時風景が見えた。山へと続く田舎道だった。ねずみ色の質素な服を着た男が道端に立っていた。男の顔立ちはどことなく洋介に似ていた。
「戦争が終わったら結婚しよう」
男が言った。話しかけられている人物は胸のあたりが温かくなった。しかしその幸福感はすぐに不安に取って代わった。
「みんながあなたを探しています。見つかったら殺されます。だから早く逃げてください」
洋介は理解した。これは祖母の若い頃の記憶なのだと。
「みんなおれのことを非国民だと言っているのだろう。でも、国のために死ぬなどと言っても、それはただの死なんだ。非国民でもいいんだ、逃げ回ってでも生き延びたい。戦争が終わったら世の中は変わる。誰も国のために死ぬなんて言わなくなるんだ」
男は山に入っていった。若き日の祖母はその後ろ姿を見送った。
「戦争が終わったら男の人は山から出てきたの?」
洋介が聞くと祖母の顔が青ざめた。
「どうしてそれを……」
おろおろして、手で洋介の口を塞いだ。
「誰から聞いたの?」
話すためには祖母の手をどかさなくちゃならなかった。
「誰にも聞いていないよ。ただ見えただけだよ」
祖母は廊下を気にしていた。義父母は働きに出ていたし、義妹と義弟は学校にいっていた。それでも落ち着かないらしく、祖母は部屋の扉を閉めた。
「熱があるから夢でも見たのよ」
祖母はほとんど懇願するように言った。洋介はうなずいた。
「夢、だと思う」
祖母の顔色は悪いままだった。ゆっくり休むように言って部屋を出ていった。足元がふらふらしていた。
洋介は目を閉じた。さっき見た風景を思い返してみた。何度でもリアルに再生することができた。
風景を繰り返し体験しているうちに、朝のしっとりと湿った空気や、虫の声、男の着ていた服の質感などがより鮮明になっていった。長年しまいこまれていた絵画の表面から丁寧に埃を払っていく作業のようだった。風景を綺麗にしていく作業が楽しくて、病気のことも忘れてしまっていた。
翌日には、だいぶ調子がよくなった。家の中を歩く程度はできるようになった。祖母は相変わらず洋介の世話を焼いたけど、どこか警戒しているようなところがあった。洋介が、もう一度額を合わせさせて欲しいと頼むと、案の定、祖母は嫌がった。洋介はしつこく頼んだ。血の繋がらない家族の中でなにかをねだるということをしてこなかった洋介が、ここまで粘ったのははじめてだったかもしれない。最後には祖母が折れた。
居間の絨毯の上で、ふたりは向き合って座った。祖母の目を閉じさせて、洋介はゆっくりと顔を近づけた。深い皺が刻まれた額は温かかった。
鮮明になったさいごの風景を思い浮かべた。それが祖母に届くことを願った。木々に囲まれた山道の濃い空気や、若い男に対する祖母の温かい感情を細部まで慎重に再現した。祖母がほうっと吐いた息が洋介の鼻筋にかかった。
額を離した。祖母が泣いていた。洋介を抱きしめて、礼を言った。洋介は風邪は治りかけていたのに、意識が朦朧としていた。
洋介は真理子のほうを向いた。あれから三十年近く経った。あの頃は、自分はみんなを幸福にできると信じていた。それなのに、今は一緒に暮らしている女にすら無視されている。