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第11回 マリア

 洋介は、まっすぐにマンションに帰らなかった。
 あてもなく歩いていた。
 やがて、中野駅についた。高架下を抜けて新中野方面に向かった。途中で足を止めてしばらく思案した。こういう時、自分ではなにも考えずに歩いているつもりでも、実際には行き先は漠然と決まっている。

 住宅街に入っていった。いくつもの路地を右へ左へと進んでいくと、やがて築三十年ほどの木造アパートに辿り着いた。鉄製の階段は錆びていて、上り下りするたびに、がこんがこんと硬い音が響く。外廊下の一番端の部屋の前で足を止めた。薄っぺらい扉の脇にアロエの鉢が置いてあった。巨大化していて、傾いている。

 インターフォンを鳴らした。返事はなかったけど、扉の向こう側に人の気配がした。「高嶋です」と言うと内側でチェーンが外れて、鍵が開いた。紫のタンクトップを着た、褐色の肌をした小柄な女が立っていた。

「珍しいわね。元気?」

「まあまあ。マリアは?」

「私もまあまあ」

 マリアは目を閉じたまま微笑んだ。
 六畳の和室に通された。折りたたみ式のちゃぶ台があった。洋介は座布団に腰を下ろした。レースのカーテン越しに通りを眺めた。
 マリアがお茶を運んできた。

「おせんべいもあるから」

 袋を開けて何枚か器に並べた。

「私は食べないから、全部どうぞ」

 洋介は手を伸ばした。一枚食べると、止まらなくなって、結局三枚食べた。

「ずいぶん食べるのね」

 マリアはさすがに呆れたようだった。洋介は苦笑いした。

「昼ご飯は食べたんだけど」

「そろそろ夜ご飯を作ろうかと思っていたんだけど、食べていく?」

「いや、家で食べるから」

「彼女とはうまくいっているの?」

 洋介は新しいせんべいに手を伸ばした。

「うまくいっている、とは言えないな」

 マリアは表情を曇らせた。

「お互いに魅力を感じなくなった夫婦みたいになってきた?」

「そうだな。夫婦みたい、ではないけど」

「惰性でつきあうくらいなら別れたほうがいいと思うけど」

 洋介は新しいせんべいを割ってかけらを口に放り込んだ。かりっという乾いた音が響いた。

「それができないから今に至ってる」

 マリアも、食べないと言っていたせんべいに手を伸ばした。形を確かめるようにしばらく触ってから、四つに割った。包装を破いてかけらをつまんで口に運んだ。じっくりと味わってから、口を開いた。

「それについて話し合ったことはあるの?」

「具体的な話はしたことがないな」

「彼女がどう考えているのかが重要だと思う。あなただけが冷めてしまったのなら、あなたが決めなければいけないことだから」

「あなたは自分が幸せにしてあげられる人が望む物を与えてあげればいい」

「なにそれ?」

「昨日、彼女に言われたんだ」

 洋介はせんべいを囓った。破片が気管に入って咳き込んだ。お茶を飲んだ。マリアは目を閉じたまま、ちゃぶ台の上に置いた自分のせんべいを撫でていた。

「最後通告かしら」

「おれは、今すぐ別れるとか、そういう話ではないって判断した」

「具体的な話にならなかっただけじゃないの?」

 洋介は窓に寄りかかった。窓手すりに雀が舞い降りてきて、すぐに飛び立っていった。小学生が叫びながら自転車で路地を突っ走っていった。

「お互いにもうわかっているんでしょう?」

「マリアのようにはいかないんだ」

 何気なく言ってから、後悔した。

「ごめん」

 マリアは首を横に振った。

「いいの。もう何年も前の話だし」

「そりゃそうだけど。言われたら嫌でしょう」

「なにも感じないな」

 そう言ってから今度はマリアが逆に聞いた。

「武は気にしてるの?」

「あのことは気にしているよ」

 マリアは「あら」と言って笑った。洋介は笑わなかった。

「武は、マリアに悪いことをしたと思っているんだ。別れる原因を自分で作ってしまったわけだしね」

「それは男の感傷でしかないわね。女は、ひとつの恋愛が終わって泣き叫んだら、もうすべては過去になるの。少なくとも私はそう。何度もリアルに思い返したりはしない」

 最後の言葉を聞いて洋介の眉がぴくりと動いた。マリアには表情の変化が見えないはずなのだが、ふっと微笑んだ。

「洋介くんのくれた風景はずっと覚えているよ。そう、恋愛は忘れたけど、あなたのくれた風景は、何度も思い返す」

 お茶を一口飲んだ。

「母親と一緒に昔住んでいた家の近所を散歩するだけの風景。住宅街の坂道を上がったところで道が二股に分かれているのよね。母親がレジ袋から大根を取り出して、『大根が倒れたほうからいこう』って言うの。覚えている? あなたの中にもあの風景は残っているのかしら」

 洋介はうなずいた。

「覚えているよ」

「大根を倒すと、大根は、私たちが上がってきた坂道を転がり落ちていって、ちょうど走ってきた車に轢かれてしまうの」

 マリアは笑った。

「本当に楽しかった。たぶん、母親と私だけが楽しいんだと思うけど」

「おれも楽しかったよ。風景を補正しながら、笑ってしまった」

「すごく幸せなのよ。あなたのくれた風景」

 そして肩を落とした。

「だから、もうああいう風景は見られないと思うと、現実に戻った時に辛いの。忘れてしまえればいいのにと思うけれど、でも本気で消してしまいたいとは思わない」

 マリアは穏やかな顔で言った。

「あなたのしてくれたことを恨んでいる。そして、同時に感謝もしている」

 洋介は手元の湯飲み茶碗を見つめていた。もう空になっていた。

「武は強い人間だけど、弱い人間でもある」

「それはよくわかっている。だからこそ彼を好きになったの」

「別れる原因も、そこにあった」

「そういう言い方もできるかもしれないわね」

「武はマリアに会いたがっているよ」

「彼がそう言ったの?」

「いや、おれがそう思うだけ」

 マリアは立ち上がった。そろそろ夕食の準備をはじめなくちゃ、と言った。明日も仕事があるから早く寝るのだと。洋介はせんべいとお茶の礼を言った。
 玄関で靴を履いている時にマリアが言った。

「もしも武が本当に会いたがっていて、それをあなたに言ったら、彼を連れてきてもいいわ」

「もう会いたくないのかと思った」

「そういうわけじゃないの」

 洋介は部屋を出た。マリアが扉を閉めて鍵をかけてチェーンをかけた。

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