第14回 坂道の記憶
さいごの風景は身近な場所にある、と蝶が言った。
ディズニーランドや東京タワーの思い出はたくさんの人が持っている。もちろんそこで起こった出来事は、特別な思い出になりうるけど、そこがアミューズメントパークや名所である以上は、どこかしら他人と似通ったものになるのは避けられない、というのが蝶の意見だった。
洋介の経験から言えば、心の底から感動した観光地の風景を選ぶ客もいれば、最愛の人と一緒に観た映画を希望する客もいた。要は本人が満足していることが重要なんだ。逆に言えば蝶が身近な風景を選ぶというのであればそれは彼女の自由だった。
三人は中野の町を歩いた。蝶が道を決めて、花はずっと蝶の横を歩いた。洋介はふたりの後ろからついていった。
何年も住んでいる町だ。知らない道はたくさんあっても、目新しくはない。それでもふたりの若い女たちと一緒に歩くのは楽しかった。選ぶ道が違っていたし、蝶が興味を示すもの(店や道路、空など)は、洋介が普段気にもとめないものが多かった。
蝶は無駄にさまよったりはしなかった。ひとつの目的地まで最短距離で辿り着くと、その場所をじっくり眺めた。それが終わるとすぐに次の目的地を目指した。図書館、公園や駅などを見て回った。地下鉄に乗って中野富士見町までいって、ふたりが通っている高校にもいった。
数時間かけて町を散策をして、中野駅前についた。洋介はほっと息をついた。蝶は、洋介の目元に疲れが出ているのに気づいて言った。
「年齢的なものもあるのかしらね」
洋介が「若くはないんで」と言うと、蝶は口を尖らせた。
「私たちは真剣にやっているの。こうやって歩き回るのは、あなたが顎を突き出すのを見るためじゃないのよ」
洋介は背筋を伸ばした。蝶はうなずいた。
「今見てきたのは、私たちが長い時間を過ごしてきた場所。そういう場所をあらためて確認して、私たちにとって一番いい場所を探していたの」
花の手を取って、言った。
「ねえ、花。小学校の時にふたりで逃げたのを覚えている?」
それを聞いて花は驚いた顔をした。それから恥ずかしげに微笑んだ。蝶は言った。
「あなたが家出をしたいって言い出して、一緒に町を出ていこうとしたんだよね」
「お母さんがいつも機嫌が悪くて、私を怒ってばかりいた頃。おばあちゃんが止めてくれたけど、でもお母さんは怒り続けていた」
蝶は花の頭を抱き抱えた。
「あなたは悪くないのよ。お母さんも、仕方なかったと思う。お父さんが悪かったんだよ」
花は蝶の胸に頭を抱かれて目を閉じた。蝶が言った。
「あなたは本当に辛かったんだと思う。でも、悪いけど、私は嬉しかった。あなたと一緒に逃げられるんだって。あなたの役に立てるのが嬉しかったの」
「あの坂ね」
花が呟くと、蝶はうなずいた。そして洋介に言った。
「私たちが町を出た時に、お互いにはぐれて道に迷ったら、戻ってこようって約束した坂があります」
それからいたずらっぽく微笑んでつけくわえた。
「電車でいきましょう」
洋介はほっとした。それを見て蝶が笑った。
当然だけど、女子高生ふたりと中年男という絵柄は、三人の関係を知らない通行人にとってはかなり奇異に映るんだ。だから、電車の中では周囲から好奇心に満ちた視線を浴びせかけられた。洋介はずっとうつむいていた。
東中野駅で電車を降りて、西口改札から駅を出たると、目の前を山手通りが走っている。歩道が広くて、自転車レーンもある。歩道沿いにはマンションやオフィスビル、飲食店が並んでいる。通りを南下していくと、しばらくして坂道がはじまる。
ふたりの家出は、半日程度だったという。中野の町をさまよっているうちに、東中野までいってしまった。そのまま歩き続けて新宿に向かったとしても住む場所などないだろう、とふたりは考えた。だから反対方向に逃げることにした。もう一度中野を通り抜けて吉祥寺あたりまで歩いたところで警察官に保護された。ただ歩いていただけだったけど、どこか不審なところがあったんだろうね。花の親はふたりが家出したことすら気づいていなかった。だから警察がふたりを連れて戻った時は驚いたし、叱りもした。
「嬉しかったのよ。あなたと一緒に家出ができたのもそうだし、あなたのご両親に叱られたのも。ああいう時にちゃんと叱ってくれる親っていいなって。うちの親はなにも言わなかった。執事は心配していたけどね」
あれ以来何度もこの坂を使ったけれど、今日ほど特別な場所に感じたことはない、と蝶は言った。花もうなずいた。
坂を下りきると大久保通りと交差する。その先も上り坂になるんだけど、ふたりはそっちには興味を示さなかった。三人はきた道を戻っていった。
坂の途中にある氷川神社のところで蝶が足を止めて、花の腕に軽く触れた。
「ここで待っている」
花はうなずいて、そのまま坂道を上がっていった。洋介は蝶と一緒に残った。花の姿が見えなくなった。ゆるやかな風が吹いた。
しばらくして、再び花が視界に戻ってきた。嬉しそうに坂道を下ってきた。ふたりの前で足を止めた。
「どうかな、こんな感じで」
花が聞くと、蝶は頭を撫でた。
「とてもよかったわ」
今度は蝶が坂道を上っていった。
「花さんは、この場所でいいんですか?」
蝶の姿が見えなくなってから、洋介が聞いた。花は質問の意味がわかりかねる、といった顔をした。洋介は言った。
「おふたりが仲良しなのはよくわかりますが……。人生におけるもっとも大切な風景を共有する、という案件ははじめてなものですから」
「私たちはずっとそうしてきました」
いつになく強い調子で花は言った。
「僕は質問をしただけです」
洋介は言った。
「血のつながりがないふたりの人間がここまで馴染むということに興味を覚えたんです」
花の顔がぱっと輝いた。坂の上から蝶が下ってきたんだ。近づいてくる親友を待ちきれずに、花は坂を駆け上がっていった。それを見て、蝶も走りはじめた。ふたりは坂の途中で抱き合った。
蝶は洋介のところまで下ってきた。その後ろに花が続いた。洋介を見もしなかった。蝶が聞いた。
「次はどうしたらいいのかしら」
「今記憶した風景を僕が預かります」
蝶は花の手を取った。
「どうやって渡すの?」
「額をつけて、受け取ります」
花が口を挟んだ。
「それしか方法がないんですか?」
蝶は花の手を取った。耳元で囁いた。
「大丈夫。私がすぐ隣にいるから」
それから洋介に聞いた。
「ここでやるわけじゃないんでしょう?」
「どこか人目につかないところで。家に戻ってもいいですけど」
「そこでいいわ」
蝶は傍らにある氷川神社を指さした。
「静かでちょうどいいでしょう」
蝶はさっさと奥に入っていった。境内にはスギやクヌギ、イチョウの巨木が何本か並んでいて、鳥の囀りが響いていた。そして、なぜかそばを茹でる匂いがした。
「すごい久しぶりだなぁ」
蝶は遠い目をして言った。
境内にはもうひとつ入り口があって、そちらにも鳥居が立っていた。それぞれの鳥居の下から石畳が直線に伸びていて、境内の中央で交差していた。その真ん中に、犬の散歩をしているおばさんが立っていて、洋介を睨みつけていた。
三人は脇にあったベンチに腰掛けた。手作りなのか、ひとり用の小さなベンチで、地面に固定されていなかった。蝶が言った。
「ではさっそくはじめてちょうだい」
洋介は蝶の前に立つと、深呼吸をした。顔を近づけようとすると、蝶は「待って」と言った。ハンカチを取り出して洋介の額を拭き、自分の額も拭いた。
「顔も拭いてもらったほうがいいかもしれない」
洋介が言うと蝶は洋介の顔を見上げた。
「私の?」
「僕の、です」
「自分のハンカチで拭いて」
洋介は苦笑いをして、言われたとおりにした。
「じゃあ、はじめましょう」
そう言って蝶は目を閉じた。
洋介は深く息を吸った。目を閉じて蝶の額に自分の額を当てた。温かかった。意識を集中した。
濃い霧が見えてきた。意識を集中していると、じょじょに切れ目が現れるようになってきて、向こう側になにかがあるのがわかってきた。さらに意識を集中していると、風景が見えてきた。坂道だ。車が走っていった。スポーツウェアを着た男が坂道を駆け下りていった。ほとんど記憶には残っていないから、顔が曖昧になっていた。
蝶は坂を見上げる。花が現れるのを待ち受けていた。駆け出したいのをこらえていた。
坂の上に花が姿を見せると、世界がぱっと明るくなった。花の姿しか見えなくなっていた。花が目の前で足を止めたところで風景を読み取るのをやめた。
額を離した。蝶はぼんやりとした目をして口を半開きにしていた。しばらくして気がつくと恥ずかしそうに微笑んだ。
「ちゃんと取れたかしら」
「ええ。素晴らしかったです」
花は心配そうな顔をしていた。蝶は花の手を取って自分が座っていたベンチに座らせた。背後に回ると耳元で「大丈夫だから」と囁いた。
「痛くもないし、怖くもないのよ」
花はうなずいた。それでも緊張しているようだった。蝶は花の髪を撫でて、肩に触れた。
「力を抜いて目を閉じるの」
花は言われたとおりにした。洋介が額を合わせると、さらっとしていて、温かかった。歳を重ねた自分が触れると傷をつけてしまう気がした。
霧が見えてきた。意識を集中して風景を探した。蝶のそれよりも濃かった。風景を探し続けた。
やがて坂が見えてきた。でも、気分は晴れなかった。なにも問題はないはずだった。
どうして不快感を覚えるのか。
洋介は気づいた。花は、蝶を待っている間に洋介と会話を交わした時の感情を引きずっているんだ。洋介は心配になってきた。まさか失敗するわけにはいかないんだ。
でも、その心配は杞憂に終わった。坂の上に蝶の姿が見えた瞬間、ネガティブな感情が吹き飛んだ。蝶が下ってくるのを待ちきれずに駆けだした。蝶しか見えていなかった。走っているという感覚すらなくなっていた。蝶に抱きつくと、ようやく身体の感覚が戻ってきた。
額を離した。花はまだ目を開けなかった。洋介が軽く咳払いをするとようやく目を開けた。
蝶が聞いた。
「どうして額をくっつけると風景が見えるのかしら」
「子どもの頃にこの能力に気づいたんです」
蝶は花と額を合わせた。ふたりはしばらく目を閉じていた。しばらくじっとしていたが、やがて蝶が額を離した。自分の額に触れながら首をかしげた。
「私にはあなたと同じ才能はないみたい」
「おかげで僕は商売になる」
蝶は洋介の腕に触れた。
「次はなにをするの?」
「今日はこれで終わりです。風景を調整して、おふたりに戻します」
「よろしくお願いします」
蝶は姿勢を正してお辞儀をした。花も頭を下げた。蝶は花を抱き寄せ、ふたりは頬をくっつけた。洋介は目のやり場に困った。