第17回 人はひとりで生きていくものだから、って言うわりに、モテには興味があったりしてね。
翌朝、洋介は五時に起きると、まず風呂に入った。
湯の中に肩まで体を沈めて目を閉じた。全身に力を入れ、次に力を抜く。それから、体の各部に順番に意識を向けていく。足のつま先からかかと、ふくらはぎへ。全身の感覚を確かめ終える頃には頭の中が空っぽになっていた。睡眠と覚醒の間くらいの感覚だ。その状態で十分ほど過ごした。
風呂から出てリビングにいく。ソファに腰掛けてアイマスクをつけると、深い呼吸を繰り返した。
風景を思い浮かべた。蝶と花から預かった風景だ。あの坂道の風景を、何度も再生して、補正を加えていった。
不意に肩を揺すられた。アイマスクを外すと真理子がいた。洋介は口元に笑みを浮かべていた。反対に、真理子の表情は硬かった。
「昨日の夜、考えたの」
「まぁ、座れよ」
真理子は首を横に振った。
「私、出ていく」
「昨日のことで怒っているのか」
「怒ってるわけじゃないの。ただ、こんなことを続けていても意味がないって思っただけ」
「落ち着いて話し合おう」
「そうじゃなくて。なんていうのかな」
真理子は頭を掻いた。
「私たちにはもう一緒にできることがないのよ」
洋介はなにも言わなかった。
真理子は寝室にいった。しばらくしてスーツケースを引いて出ていった。
十分ほど待ってから寝室の様子を見にいった。
今までとほとんど変わらなかった。出ていく前から、真理子の物はほとんどなくなっていた。同棲をはじめた頃は、それなりに持ち物があったんだけど、時間をかけてどこかに移動したり、処分したりしていたのだ。
クロゼットには段ボール箱がひとつ残っていた。沖縄のシーサーや、北海道の木彫りの熊、アメリカや、アイルランドで買ってきたお菓子などが詰まっていた。すべて洋介のお土産だ。それらをゴミ袋に詰めてマンションの一階にあるゴミ置き場に運んだ。ひんやりとしていて、龍角散の匂いが漂っていた。土産物が詰まったゴミ袋を棚に置いた。感慨にふけるつもりもなかったけれど、選んで買ってきた時にはそれなりに気持ちがこもっていたはずなのに、こうやって眺めると、ただのゴミだった。それ以上でもそれ以下でもなく。
数時間後、洋介は武が社長を務めている不動産会社の事務所を訪れていた。自宅一階の一部を区切ってオフィスにしている。自宅とは完全に独立していて、行き来はできない。
事務所の自動扉から入ると、カウンターがあって、向こう側には事務机が三つ並んでいて、左手にセパレータで仕切られた応接スペースがある。
武は事務机のひとつに座っていた。白い上着を隣の椅子にかけて、ネクタイを緩めていた。ワイシャツの胸元に血がついていた。洋介は勧められた椅子に腰を下ろした。
「喧嘩でもしてきたのか」
洋介が聞くと、武はにっと笑った。
「仕事だよ」
「不動産屋の?」
「たまにはこういうこともある。いろんな奴がいるんだ」
武は立ち上がった。冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出した。流し台に置いてあったグラスを水ですすいでから、ウーロン茶を注いだ。
洋介はうなずいた。武は洋介の分もグラスにウーロン茶を注いで運んできた。
「喧嘩でもしてきたのか」
今度は逆に、武が洋介に聞いた。洋介は曖昧にうなずいた。
「どうしてわかった?」
武はにっと笑った。
「幼なじみだからな。言わなくてもわかることはある」
洋介はウーロン茶を一気に半分飲んだ。
「別れた」
武は「そうか」と言って、汚れたワイシャツを脱ぐと、丁寧に折り畳んだ。奥のロッカーからクリーニング屋のビニール袋に包まれたワイシャツを取り出した。
「糊を利かせすぎだよ」
くっきりと筋のついたワイシャツを着て、武は文句を言った。洋介は思わず吹きだした。武は椅子に腰を下ろして「で?」と聞いた。
昨夜の一部始終を話した。武は最後まで黙って聞いた。
「それで出ていったのか」
「出ていったのは今朝だよ。直接的な原因は昨日の喧嘩だな。……まったく、くだらない万引きなんかしやがって」
武はワイシャツを引っ張りながら言った。
「正直、驚くってほどでもないな」
「やっぱりわかるか」
「話題に出なかったもんな。おれは彼女のことを知っていたけれど、そうじゃない奴だったら、彼女がいるとは思わないだろうな」
「おれ、そんなに孤独感あるかな」
「恋人がいて幸せって感じではないな」
「今もそんな感じだよ」
「恋人がいなくて寂しいって感じでもない」
そう言って武は洋介のグラスにウーロン茶を注いだ。
「別れても、今までと同じか」
洋介はうなずいた。ウーロン茶を飲んだ。武は灰皿を取ってきて、煙草をくわえた。
「愛情が冷めたカップルってそういうもんだ」
武が真顔で言うので洋介は「ふ」と笑った。
「なにがおかしいんだ」
「武は、冷めたカップルになったことなんかないだろ」
武は煙草を深く吸って灰皿に押しつけた。
「おればかり一生懸命で、相手が逃げていくっていうパターンだからな」
「果穂さんは違うだろ」
洋介がフォローすると、武は苦笑いを浮かべた。
「温度差みたいのを感じるよ」
洋介は曖昧にうなずいた。武はつけくわえた。
「珍しいことでもない。むしろ毎回そうなんだ。どの女とつきあっても、そう感じる」
武はウーロン茶を飲み干した。
「ごつい顔して、高校生みたいな恋愛観だ。いや、今時の高校生はもっと冷めているかもしれんが」
流し台にいってグラスを洗った。戻ってきて椅子に腰を下ろした。ぎいと音が響いた。新しい煙草をくわえた。
「こういう話になったから聞くんだが。マリアは元気か?」
洋介は目を逸らしそうになった。
「元気だよ」
「男はできたのか」
「どうかな。ひとりだと思う」
「あいつもひとりでは生きていかれない人間だ」
「近所に母親が住んでいて、ちょこちょこ世話を焼きにくるみたいだった」「バカヤロ。そういう意味じゃねぇよ」
まったくしょうがねぇな、と武は笑った。
「そんなことだから、真理子さんがいてもひとりに見えるんだ」
洋介は立ち上がると、空になったグラスを流し台に置いた。
「なぁ」
武が言った。洋介は背中を向けたまま、続きを待ったけれど、武は黙っていた。だから洋介が聞いた。
「なんだよ」
「マリアの様子を見てきてくれないか」
「元気だって言っただろ」
「最近会ったかどうかってことじゃなくてさ。これから、見てきてくれってことだよ」
洋介は振り向いた。武は、洋介が座っていた椅子に、まだ洋介が座っているかのように話しかけた。
「なんとなく気になるんだ」
「第六感?」
洋介が聞くと、武はゆっくりと首を横に振った。椅子に向かって言った。
「ただの未練だよ」