第5回 雷の記憶
当然だけど、洋介の仕事は海外のみというわけじゃない。むしろ国内、もっといえば都内がもっとも多い。今日もそういう仕事だった。
マンションの屋上に立っていた。すっきりと晴れていて、強い風が吹いている。そこから見える新宿方面の風景が必要なんだ。
ちなみにこのマンションは昔、依頼人が住んでいた。当時はまだ東京都庁は建っていなかった。東京は今よりもずっと背が低かった。
目の前の風景と依頼人の記憶にあった風景を重ねてみる。
厚い雲が空を覆っていた。ほとんど全体的に黒に近い灰色なんだけど、場所によってはオレンジ色に見える箇所もあった。時折、雷が光って、少し間をおいて、ごごごごと雷鳴が響いた。
洋介の胸が高鳴った。当時、依頼人が感じたのと同じように。
この頃、依頼人はもう成人していた。だから雷鳴を知らなかったわけはない。しかし、依頼人の記憶にはこの感動が深く刻まれていた。もう一度見たい、リアルに感じたいと願ったんだ。
湿り気を帯びた生温かい空気。微かにカビのような臭いが混じっている。この空気を一生覚えているだろう、と依頼人は直感した。その思考が洋介の意識に入っている。
しばらくして洋介は意識を現実に戻した。じりじりと照りつける太陽の熱と、その暑さを和らげる強い風。別の世界から戻ってきた時のぼんやりとした、足元がおぼつかない感覚。洋介は転ばないようにゆっくりと歩いて屋上を後にした。
階段を下りてエレベーターホールにいくと、管理人がいた。洋介をじろじろと見て、「このマンションの人?」と聞いてきた。洋介は答えなかった。
エレベーターが到着した。洋介は乗り込んだ。管理人は洋介を睨んでいた。扉が閉まると、洋介はほっと息を吐いた。壁にもたれて目を閉じた。
一階のエントランスから建物を出た。ふたりの若い女が立っていた。ふたりとも背が高くて、黒髪を長く伸ばしていた。白いワンピースもお揃いだった。ひとりは昨日会った蝶だった。
「この子は花というの」
蝶は隣にいる女を紹介し、姉妹ではないと断った。
「でもよく似ているでしょう」
洋介はうなずいた。
蝶が聞いた。
「なにをしていたの?」
洋介は答えなかった。蝶は「仕事をしていたのでしょう」と確認した。洋介は答えずに通り過ぎた。蝶が追いかけてきた。
「あなたがなにをしていたかという質問はやめます。あなたが今していたことは、あなたにとって喜びなのか知りたいわね。つまり、他人の幸福があなたにとっての幸福なのか、ということよ」
「守秘義務があるんです」
「あなたの感情を聞いているの」
大通りに出て地下鉄の駅に向かう。蝶と花はずっとついてきた。洋介は足を止めた。
「今の仕事に満足しています」
それを聞いて蝶は微笑んだ。バッグから封筒を取り出した。
「私の家に招待するわ。お婆さまの伝言ではなくて、私が自分で招待するのよ」