良い人悪い人知らない人
10年来の友人には「性格が丸くなった」と言われる様になった。
大人になったというべきなのか、軟弱になったというべきなのか…
その友人と知り合った頃の私は、まだ制服を着ている時代で確かに尖っていた。
思春期特有の強がりと、崩壊した家庭と周りの大人達がする的外れな評価と若さを搾取しようと企む人間に揉まれて生きてきたからだ。
子供が初めて信頼する大人とは親であり、次に親戚や学校の先生といった具合に社会や集団の輪が広がっていくのと同時に沢山の大人を見るようになる。
しかし、我が家は育児放棄の母親に仕事しか見えていない父親、虐待されながらもヤングケアラーとしての役割を強いられ、学校では友達が出来ない状況で育つと、親を信頼するなんて気持ちは芽生えなくなる。
本来ならば庇護下にいる年端もいかない子供が、親という存在に失望する。
そして、自分の置かれている状況がおかしいのか、はたまた自分がおかしいのか、そのおかしさは第三者からみて是正できるものなのか…
正直、小学生の時から家庭環境が特殊な事には気づいていたが、宗教上の理由で「仕方の無い事」だと思っていた。
親が離婚する事となり、私のアイデンティティだった"母親の"信仰心が崩壊し、自己主張する事を悪だと教えこまれていた私が小さなSOSを出すも「他に辛い人はいっぱい居る」と先生に一蹴された事によって、大人は何も見えていない、無条件に頼るべき存在ではない、と学習する事となった。
それから、同年代と悩みの種が違う私はクラスメイトと仲良くなる事が出来なかった。彼らの話があまりにも下らないと思えて、何一つ共感出来ずいたし、もうその頃には外界への興味関心が全くなかった。
恋愛番組、お笑い番組、好きなアイドルや歌手、今流行りの遊びや誰かの悪口噂話。
お陰で根も葉もない噂話が広がり、好奇の目でみられ、盛り上がった子達にいきなりプライベートな事を聞かれる。
私にとって学校内で起こる出来事は全て私の気持ちを動かすには何一つ足りず、更に心の防御力を高めるだけだった。
その時から私はずっと本心を見て欲しいと思っていた。見た目や喋り方、そんな事よりも私の心を見て欲しかったのだ。
だから、その友人がそれに気づいて心を見てくれたから、10年もの間を過ごす事が出来たのだ。
あの時の私は警戒心が強く、口数も少なかったし、当時言われた「大人をバカにして」いたし、目先のモノよりもっと先を見据えて行動していたかったし、加害的な人間にはそれと同等のエネルギーで牙を向いていた事に加えて、理論的に納得出来ない事はNOと突き返していた。
それが表面上では尖った言動に結びついていたのだろう。
今は相手の攻撃性や幼稚さを受け流す余裕か出来たといえば聞こえがいいが、必要最低限のエネルギーで自分を守るための術を身に付けた感覚に近い。
それに誤解される事が多いので自己開示する事も増えた。
更に言えば、友人に恵まれて社会性をある程度まで身に付ける事が出来た。友人が凸凹な私でもありのままを受け入れてくれたから、自分も他者を受け入れる重要性を学べたし、感情表出の仕方も習った。
なので、丸くなったと言われるのは少しくすぐったい気持ちになるのだ。恥ずかしいというか、褒められている気になるというか…。
でも変われたのは間違いなく友人たちのお陰で、きっとあのままだったら今よりも生きにくかった、丸くなれたのは貴方たちのお陰であり、感謝している。
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