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『塔』2024年8月号(1)

さざ波のごとくわが切り岸にまで寄せ来てを咲く白さくらばな 永田淳 桜を眺めている歌とも取れるし、一首全てが喩とも取れる。主体の心を切り岸に喩えたことに呼応して、桜を波に喩えている。矩を踰えて心に迫る花も何かの象徴か。「まで」「を」に辞の技法がある。

ウィスタリアみっしり揺らぐを見上げいる児は三年前地上に来たり 山下泉 藤棚の下で、満開にみっしり咲いた藤が風に揺れているのを、子供が見上げている。子が三年前に生まれたといわず、地上に来た、という。異星からやって来たような不思議な雰囲気が醸し出される。

弟か妹がほしいと近ごろの娘がしきりに訴えにけり/そうだよねお母さんもそう思うけどねと言いつつ 思いつつ十年 永田紅 一人っ子の親の心情がよく表れている。もう一人欲しい。でも今でも大変な生活がもっと回らなくなりそう。そう思っている内に歳月が経つのだ。

ほら私ですとマスクがずらされて見おぼえのない顔があらわる 垣野俊一郎 え、誰・・・?字だけで読むと面白短歌だが、自分が実際そういう場面に立たされたら冷や汗が出る。相手が自信満々にマスクをずらしても全く分からない。私です、と言わずに名乗って欲しいものだ。

大きくてぶ厚いウニだぶりんばんばんぼんぶりんばんばんぼんと笊に並べる 逢坂みずき オノマトペが楽しい。濁音の多い強い音から、本当に大きくて身の詰まったウニが笊に投げ入れられて並ぶ様子が目に浮かぶ。ちょっと音数が多いけどそこは勢い。仕事への賛歌なのだ。

フクギ五本イヌマキ二本バナナ二本生家の屋敷図に指さす お母さん (故)与儀典子 かなり広いお屋敷なのだろう。自分の生まれた家の図を指さしながら庭木の名を言う母。それを見つめる娘が主体だ。お母さん、は心の声だろう。
珊瑚石灰岩(コーラル)を踏み均したる門口にバナナが二本みぎとひだりに (故)与儀典子 いかにも沖縄な風景。家の門口の地面は珊瑚石灰岩を踏み均したもの。その門口に二本のバナナが立っている。バナナの間を通って家に入っていたのだろう。南国の陽射しも感じられる。
八種類二十五本の柑橘(かんきつ)の生る母の家基地に埋められ (故)与儀典子 初句二句に圧倒される。実った柑橘を自由に取って食べていただろう日々。そんな母の家は米軍基地に埋められた。一連の他の歌から主体がそれに抗議していること、母が遠くの施設にいることが分かる。
 誌面でしか存じ上げないが、毎月歌を拝読していた。沖縄の今を教えてくれる歌だった。お父様の歌も心に残っている。突然の訃報に驚いた。与儀典子様のご冥福をお祈りいたします。

ひやしんす、ひやしんすつていふときのすずしさを舌にのせるといいよ 小田桐夕 なぜヒヤシンスと言うと涼しいのか。冷やす、からの類推だろうか。語感が体感に繋がるということを思った。冷や(ヒヤ)と言えば冷えるような…。舌以外全てひらがな書きなのも効いている。

2024.9.16.~17. Twitterより編集再掲

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