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死ぬまで消えない



月夜のベランダには、酔いを醒ますに十分な冷たい風が満ちている。左手に冷えた缶ビール。右手に古いiPhone。


こんな、くたびれ気味のサラリーマンにとって最高なロケーションの花金の夜、俺の気分は最低であった。


ぼうっと動画を眺めていたはずのiPhoneには、先ほど唐突に現れたエアドロップーー画像共有をワイヤレスで行うシステムの確認画面。


そこに『受け入れる』『辞退』という2つの選択肢と、「高い建物の屋上の縁に立っている誰かの足を、真上から撮った写真」が表示されていた。


 ぐ、と力が入って缶がへこみ、ひしゃげて出来た小さな穴から月の色をしたアルコールが零れて落ちた。


写真に写り込んだ遥か下の道路や看板は、今俺がいるベランダの真下のものだ。そしてお行儀よく建物と宙の境目に並んでいた靴には見覚えがある。こんなにも非常識で迷惑極まりないことをやってのける、頭の悪い奴なんて1人しか知らなかった。






「こんばんは」




1階分駆けあがった階段を抜けて扉を開けば、思い描いた通りの人物が屋上の縁に立っていて、振り返って言う。そうやって死ぬほど無邪気に笑うから、心底憎いと、息を整えながら思った。


ここは、社会に擦り潰されている俺のような者が気を許して暮らせるマンションだ。だから屋上の壊れた鍵など放置されているし、縁にフェンスを作って安全対策されたりなんてしていない。


社会人になったばかりの頃、アパートでは張りが出ないとぎりぎりの見栄で借りた、最上階5階の部屋の、真上で。


冗談みたいに丸くてでかい月が見ているなか、数年ぶりで最悪の再会を、俺たちは果たした。










「迷惑だ」


こころから出た一言。
やっと終えた仕事の疲れを癒す晩酌を邪魔されたことにも、こんな方法で数年ぶりに再会させられたというのに目の前の人物がひどくご機嫌であることにも、その表情のすべてが月のせいであきらかなことにも、全部が我慢ならなかった。


「届くかなあと思ったら、届いてしまったの」


『屋上の縁に立って、自分でその足元を写真で撮って、エアドロップの共有先に俺の名前が現れたから、その胸糞悪い写真を送りつけてくる』という、こいつは救いようのない異常者だ。


もうほとんど宙の中にいるみたいに思えたその異常者は、こちらに背を向けてしばらく満月と対峙してから、ダンスのステップのような軽やかさでこちら側へとその身を戻した。








「さよならを言いに来た」

「さよならなんて随分前にもう済ましただろうが。こんなことしなくたって、ここから叫べば、俺のベランダまで聞こえただろ」


写真の共有が届くかどうかなんて、分かってやっていたくせに。晴れた花金の夜には、俺がこの真下のベランダで酒を飲んでいることだって、知っていたくせに。


こんな場所まで、こんな最低なシーンにまで、まんまと誘い出されたことに心底苛立つ。


「あのベランダは君の城だから。悪い思い出を遺したくなかったの」

「気遣いどうも。もう十分最低の思い出になった」

「たしかに。ほんとごめん」


こいつはいつだって、馬鹿みたいに素直で無鉄砲なやつだった。5年前に閉じたきりもう開くまいと思った心の扉が、わずかに軋む。







「エアドロ使って痴漢する変態と同じくらい、お前は最低だよ。何でこんなことするんだ」

「ごめんなさい。もう二度とやらないから――私だって自分の生死の与奪くらい握れるんだぞって、そう思いたくてあの写真撮ったの」

「……お前の命ははじめから、お前だけが握ってるものだろ」

「違うんだなあ。病気とか、お医者様とか、お金とか、絶望感とか、そういうのに、今はほとんど握られてるかもしれない」


つまんないの。ため息交じりにそう呟いた声は酷く小さかったのに、秋の空気があまりに澄み渡るものだから、歩み寄ろうとしない俺にも、ちゃんと届いた。


いつもお前は勝手だった。勝手に近づいて心に入り込んで、お前に病気が見つかったら勝手に離れて、心を閉じたころにまた勝手に現れて。


どんなことを言われても、もう心を開くまいと睨みつける俺の感情を何もかも分かっているみたいに、じっと、月が見ている。




「さよならだけじゃなくて、もうひとつ置いていきたいものがあって」

「いらねぇよ」

「これは私にとって必要な儀式みたいなものだから、今日だけゆるして。君は明日から、すっかり私のことなんて考えなくていいから」

「だれがお前のことなんて考えてやるか」

「はは、君のそういうところ、ずっといいなと思ってた」




儀式だなんて気味の悪いことを言ってから、青く照らされていた横顔をこちらへまっすぐ向けた。煌々とする満月を背にして、もういま彼女の表情はほとんどわからない。
腹の底が冷たかった。なんてことない風を装ってズボンのポケットに差し込んだ左手の指が震えている。



大嫌いだ。いつもいつもいつも、飄々と俺を振り回すお前のことが。







「ーーこれから君に、呪いをかける」






「……は?」

「ふふ、怖い顔。呪うんだから静かに聞いてよ」


ひゅうと風が吹く。お前の声が風に乗って吹き付けてくる。






「これは、死ぬまでとけない呪い」


「私が今夜ここから消えて、ずっとずっと時間が経って、私の声や、顔を思い出せなくなっても」


「それでも君は私を忘れない」


「幸せな人生を君は歩む。夢を掴んで、気のいい友人に囲まれて、そして恋をする。その恋も必ず実る」


「大切なひとと結ばれて、君はいよいよ世界で一番幸せになる。でも」


「夢の途中にいるときも、友人と笑いあうときも、この上ない幸せの中にいるときも」


「それでも、君はふとしたときに私の名前を思い出す」


「君の深層心理とか、記憶とか、そういうものの一番深い場所に染みついた影みたいに、私はずっと、ずっと、死なずに存在する。君の命が終わるまで」


「でも君は、悲しくも、淋しくも、痛くもなんともないんだよ」


「あは。――こんな些細な呪い、かかってくれても、いいでしょう」












月を背にして、歌うように宣言されたそれは、自分勝手で傲慢で残酷で優しい呪いだった。そしてもしかしたら、彼女が"自分自身の生死の与奪"を握るための、唯一の方法なのかもしれなかった。



最後の言葉が懇願のように聞こえて、もしかしたら彼女は泣いているのかもしれないと思った。



阿呆のように目を見開いて何も言えない俺をじっと見つめて、ゆっくりと小さく彼女は頷く。俺へかけた呪いの効果を、確信したかのように。










「ほんとうはずっと、君のことが代えがたく好きだった。いままで、ありがとう」








グランドフィナーレを迎えた役者のように、深く静かに頭を下げるのを、呆然と見つめていた。


月に照らされた背中や首筋が以前にもまして細く小さくなったことにも、薄いTシャツの上からでもわかる浮き出た肩甲骨や背骨にも、ひどく狼狽えながら。


――むかし、自由すぎるお前を縛るものは、何もなかった。その自由さを好ましく思っていたことにも、僅かに憧れを抱いていたことにも、本当は気づいていた。


あの日無敵のように思えた非常識と理不尽の塊のようなお前でさえ、いまも何者かに一方的に、命や選択肢を奪われ続けているというのか?そしてもうすぐ奪われきって、この世界から、居なくなろうとしているのか?


それがひどく恐ろしいことに思えた。病気だと知った時にも、彼女は負けたりしないのだろうと勝手に思っていたのだ。でも、本当は、それが彼女にとっても恐ろしいことだったのだと、どうしてそんな当然のことを考えもしなかったのだろう。


抗いようもなく俺の目に走った懐かしい感情を察したようで、もう何も言わずに、彼女は俺の横を通り過ぎて出口へ向かっていく。








「さようなら」


きっと聞くのが最後になるその声に、俺は、振り向きも追いかけもしなかった。











月光がおりる屋上で、重たい扉の閉まる音を聞きながら。ずっと握りしめていた右手のiPhoneを持ち上げる。そして表示されたままだったエアドロップの画面で、『受け入れる』を、そっと押した。


だからお前なんか大嫌いなんだ。


悲しくも、淋しくも、痛くもなんともない呪いだと、そう言ったじゃないか、大嘘つきめ。






絶対に開くものかと誓ったこころの扉が、いま、彼女の大きさ分ひらいていた。


そこから月光が細くさしこんで、俺の中の見たくないものまで照らすので、動けも泣けもせずに、俺はただ立ち尽くすしかなかった。

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