笑顔と余裕が足りたい
当たり前のことを何度も何度も書きたいんですけど。
この時期になると、
予定を繰り合わせたり、待ち合わせ場所を決めたり、
寒い中、わざわざ厚着をして街に出てくる人たちが、
なんだか可愛らしくて素敵ですね、と思います。
今年も来年も、ただ今日か明日かの違いでしかないのに、
今話しておきたいと思う、昔に会った人がいて。
ふと、今の反対はなんだろうと思って調べたら、
答えは簡単で、昔でした。そうでしたね。
そんなことも忘れてた。でも未来はどうだっけ。
過去と現在は未来。
昔と今は何になるんですかね。どうなんでしょう。
唐突だけど、大事なのはバランスだと思っていて。
私とよくおしゃべりをしてくれる人との口癖で、
いつも「大事なのはバランスだよね」というと、
これはなんとなくピリオドの役割をしてくれる。
久しぶりに、その人と会って、
いつもの呼吸のつもりでこの口癖を言ったら、
なんだかよくわからない不安に襲われたので、続けて
でも、何かに突出していたほうが格好いいよね。バランスなんて誰にも測れないのだし、
なんて言ってしまった。
いつもはそこで終わる会話に
続きを作ってしまったので、
この場合、次にこの口癖を使いたい時、
この言葉まで考えないといけないかも、とかよくわからないことが頭に浮かべながら、
確かに私はこれだけは、といえるものがずっと欲しかったなと思った。
口癖に要約されていた気持ちが、少しずつ顔を出してきて焦ります。
私も是非、焦燥感と手を繋いで走りたいです。
最近は窓の外を見ると、
木々が激しく風に吹かれていたり、
厚く灰色の雲が覆いかぶさっていたり、
身を寄せてベンチに座る若い男女のその足元で枯れ葉が舞っていたり、見ているだけで寒気がする光景がよく見えます。
でも内側では、外の音は案外遮断されていて、
お店の中の暖房が激しく効いていたりなんかすると、
心地の良い錯覚を感じるので、それが好きです。
布団の中で登山ドキュメンタリーを見るような、そんな満足感。これはただ言いたかっただけ。
なんとなく嫌な目にあったり、
なんとなく嬉しいことがあると、
そういう風の吹き回しだとか、星回りだとか言って、
小気味良く通り過ぎていく毎日が、
流れるものから積み重なるものに少しずつ変わっていく感覚が最近あります。本当に最近。
私は、昨日以前の私に関して全く興味がなくて
昨日の私が何をしていたとしても、
今日の私に影響してくることは今まで、恐ろしいほどなかった。良いことも悪いことも。
というより、
明日の自分が生きているかもわからないし、
のような今以外の自分を信頼していない感覚が、
常に心の隅にあった。
感情の面よりも、
生活の面での話だと思うんですけど、
心を大事にしようと思うことはいくらでもできる気がする。でも、身体を大事にしようとすることは意外と難しかったりする。
最近の私はどちらかといえば、身体を大事にしようという意識があって、今まで心のために後回しにしていた身体を労ってあげると、心が優しく後に付いてきてくれるようになったなと思う。
これを人は余裕と言うのでしょうか。
本当に当たり前のことを言ってるけど、私の中ではこの感覚は初めてで。
今までの私を思い出して、それもひっくるめて信頼してあげられるような感覚です。
ギターを触っている時間は何も聞こえなくなって、ご飯を忘れてしまったり、納得のいかない文章を朝まで考え続けたり、酷い生活習慣でよくしゃがみ込んでいた時は、今の私に寄りかかりすぎて、その瞬間しか考えられない子供のような部分があったなと気がついた。
単純な話、今は寝て、続きは明日の自分にしてもらおうと、考えることが難しかった。
久しぶりに
半年前に書いた論文を読み返すと、
最後には
表現という一種のリズムを確立させるには、生活することが第一条件となる。
なんて書いてあって、今その意味を理解した。
身体と心について。
心は身体の声をきっと聴いている。
どっちがどっちの声かわからなくなった時には、布団の中で登山ドキュメンタリーでも見てみてください。
P.S
少し思ったんですが
生活ができると言うのは、
昨日と明日の自分のことを信頼できることですね。
昨日の自分がこうしてくれたから、
明日の自分のために、
みたいなRADの叫べの歌詞みたいに。
私は時間の区切りがあまり好きではなくて、
昔読んだ私の好きな本で、
動物には明日という概念がないという文章を読んだ時、
そう思って生きられたら良いなと何度も思いました。
明日とか来週とか来年とか、
時間の区切りが何故か見えてしまうから
私たちは時間を数える感覚を知っていて、、
それってすごく退屈だと思います。
もし、他の動物のように
今から死ぬまでの時間を一本線で捉えることができたら、本当にやりたいことに向き合える気がして。
結局、大事なのはバランスですね
ピリオド