見出し画像

透明な球体(経験した死の数々)

私の胸の真ん中には、透明な球体が存在する。

たとえばゲームに没頭しようと、推しと呼べる存在ができようと、友人と深い話をして心を通わせようと、その透明な球体は決して何色にもならない。むしろこの人生が満たされれば満たされるほど、球体の輪郭がはっきりしていく。

最初は人間として大事な何かを失ってしまった、そういう欠落かと思っていた。だが、よくよく観察してみると、その球体は「寂しさ」の結晶だった。

それはいつも、まるで最初からないもののように振舞っている。私自身も、そんな球体が存在することなど感じていない時間のほうが多い。でも、ふと、日常の中でその透明さを強烈に感じざるを得ないときがある。

ある日の帰り道。目の前に、杖をつきながら一歩一歩ゆっくりと坂を登っていくおばあちゃんと、そのおばあちゃんと手を繋いで歩調を合わせる中年の女性がいた。寄り添って、笑っている。二人はどうやら母娘らしかった。

桜吹雪の中に見たその姿は、透明な球体の表面に反射して、忘れかけていた孤独を照らす。

「私も、ヨボヨボになったあなたの世話をしたかった」

この透明な球体を満たせるものは、一体何なのだろうか。

眠っていたnoteの下書きより

私が「死」という事象に強く興味を持つのは、ごく自然な流れであったと思う。

父方の祖父と母方の祖母は、私が生まれたときにはすでに亡くなっていた。二人とも両親がまだ幼い頃、あるいは若い頃に病死したようである。

私が小学生の頃、父に付き添う形で出席したよく知らない誰かの結婚式に、祖父の遺影が置かれていた。祖父の顔を見たのはこのときぐらいだったはずだが、肝心のその顔はまったく覚えていない。祖母の顔にいたっては見る機会すらなかった、と思う。

では母方の祖父はといえば、記憶にあるのはすでに認知症になった後の姿だけである。遺された数枚のフィルム写真をみる限り、私が赤ちゃんの頃は「初孫をかわいがるふつうのおじいちゃん」だったようだが。

当時は今ほど認知症が世間に知られておらず、「ボケちゃった」と表現されたものである。祖父がごはんを食べた数十分後に「ごはんはまだか?」と母に尋ねる姿を、この目で間近に見た。クラスメイトやテレビの中の芸人がこういう状況を“おもしろネタ”として扱うのを見ても、絶対に笑えなかった。自分にとってこれはおもしろおかしい冗談ではなく、リアルだったからである。

小学四年生の冬だった。朝、目が覚めると寝室の外が騒々しい。ふすまをそっと開けると、リビングをはさんだその向こう、祖父の部屋に両親の姿が見えた。床にひざまずき、体を大きく上下に動かしている父(あとから思えば、あれは心臓マッサージだった)。その隣に泣きじゃくる母。ただならぬ状況が目の前に起きているとだけなんとなくわかって、でも自分にできることなどあるはずもなく、ただ立ち尽くした。

祖父は死んだ。ほとんど寝たきりで弱った体なのにホットカーペットの電源を切って就寝したせいで、寒さに心臓をやられたらしかった。

死とは何か、それを初めて肌で感じたのはこのときだっただろう。認知症の祖父に対しては好きも嫌いもなく、まだ無知なこどもゆえに「なんとなくふつうではない奇妙な存在」として距離を保っていたが、葬儀ではなぜか涙が流れた。母の涙に共鳴しただけだったのかもしれないが。

葬儀に参列するため、遠方から大勢の親戚が来た。私はたくさん声をかけられ、かわいがられ、励まされた。葬儀の日の朝、出発前にシルバニアで遊んでいたら、咎めもせずにその様子を写真に収めてもくれた。葬儀が終わってみんなが帰るときには、別れが寂しくてまた泣いた。

では父方の祖母はというと、祖父母のうちで一番しっかりと記憶に残っている存在ではある。だが、その思い出たちに幸福感はない。

シンプルに言ってしまえば、苦手だった。祖母はなんというか、自分の思いをストレートに言葉にできる人で、そのきつい物言いが幼い私には受け入れられなかったのである。母の日になると、両親と私は必ずこの祖母の家を訪れた。それが私たち一家の恒例行事で、だから私は母の日が嫌いでしょうがなかった。祖母の家に向かう車内で狸寝入りを試みるぐらいに。

だが、私が中学校にあがったぐらいからこの恒例行事もなくなって、祖母とは疎遠になった。そのあいだに祖母は入退院を繰り返すようになり、衰弱していった。父に頼まれ、一度だけお見舞いに行ったことがある。そこにいた祖母は、記憶の中にいる強い祖母ではなく、髪の毛も真っ白ですっかり別人のようだったな。

高校生の頃、夜遅くに病院から電話が来て、家族三人で慌てて向かった。用意の遅い母にいらだつ父。山道を飛ばす車。重苦しい沈黙。祖母は老衰で亡くなった。苦手な人だったというのに、泣いていた。母は乾いた瞳で、「ちーちゃんは血がつながっているから涙が出るんだね」と言った。

祖母は、今でいう「終活」を完璧に終えていた。自らの死に際して必要な経費はすべて貯めてあり、死後の道すら決めてあった。その道とは「献体」といって、自分の遺体を医大に提供し、医者の卵たちのために有効活用してもらうという道だ。

父はすぐに祖母から託された手続きをする。そうしたらすぐ、祖母が生前に契約を交わした大学から職員の方が来て、葬儀代わりにお別れの会が執り行われた。参列者全員で祖母の体を棺に入れ、花を手向け、霊柩車ではなく黒いバンに運び入れ、出棺を見送る。雲ひとつない真っ青な空と、響き渡る長音のクラクション。

二年後。遺族に代わって大学が火葬をおこない、遺族が一堂に会して合同葬儀と遺骨返還式がおこなわれた。

故人の名前が読み上げられ、遺族の代表者一名が前に出て骨壷を受け取る。その中のワンシーン。男性と思われる名前が読み上げられた後、女性が前に出て骨壷を受け取った。女性は席に戻る途中、歩きながら、感極まったように骨壷に頬ずりする。

どこの誰かは一切知らない。だがその光景は今も脳裏に焼きついている。

私の歩く時間の中には、死が近しいものとして存在しつづけている。先に書いた祖父母だけではない。小学生の頃に飼っていた愛猫は交通事故で死んだ。大学生の頃には私自身が死を選ぼうとした。そして私が22歳になる年には、母が自死した。

「透明な球体」の存在を知覚したのは、母の自死を真っ向からみつめるようになった頃からである。

私は、ずっと寂しい。

それはきっと「与えてくれる人」が次々と旅立っていってしまったからじゃないか。

アルバムの中で、祖父は私を嬉しそうにだっこしているし、祖母は私を膝に乗せてニコニコしている。それに母も――。たとえ記憶の中に幸せな色がなかったとしても、「あなたは望まれて生まれてきた命だ」と刻んでくれた人たちがいる。

それが「産んだ側のエゴ」と思わないわけではない。私自身に子どもを生みたいきもちはまったくないし。生まれないほうが何倍もよかったと思うし。それでも、生まれてしまったからには思う。誰もが親を選べないこの世界で、自分が望まれる存在として生まれたのは幸運だろう、と。

私に与えてくれる人が死んでいったことによって「透明な球体」は形作られた。だとすれば、かつてこの球体に満ちていた色はきっと、無償の愛とでも呼ぶべきものだったのだろう。

だが、無条件に与えてくれる人は私より先に死んでいく。そして何者もその代わりにはなれない。たとえば「母の愛」は母しか持っていないものだから。たとえば恋人の愛が完璧な代替品にはならないだろう。「恋人の愛」は恋人の愛以外の色になれはしない。

じゃあ、この「透明な球体」は何によって満ちるのか。

 

私自身が「与える人」になる、とか?

 

そう思ったのは、自死遺族向けに書かれた本の、この一節を読んだのがきっかけである。

回復過程の最終局面が訪れるのは、苦しみを通じて自分が何を学んだかを自覚できた時です。自分自身のことや、自分に起きた出来事のことばかり考えるのをやめ、ほかの人のために何ができるかを考えられた時、自分が真に回復していることがわかるでしょう。

自殺で遺された人たちのサポートガイド―苦しみを分かち合う癒やしの方法―
アン・スモーリン、ジョン・ガイナン著

私が「死」という事象に強く興味を持つのは、ごく自然な流れであったと思う。そして最近、その興味を使って何かやりたいんだよな、とよく考えるようになった。

絵心もないし、歌の才能もリズム感もないし、体を動かすのだって苦手だし。でもまぁ、文章を書くのと、シャッターを押すぐらいなら、できるかな。

さて、私はこの人生を使い、どんな「与える人」になれるだろうか?それに伴い、この「透明な球体」はどうなっていくのだろうか?この胸に球体があったことすら忘れてしまうような未来があればいいな、とも思いながら――。

 

 

良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。