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花降らさば光抱く
「亡くなった人を思い出すと、その人に花が降る。」
流れていくタイムラインにその言葉をみつけたとき、私はこたつにもぐって黙々と本を読む母の姿を思い出していた。
その瞬間にも、母の頭上に花は降っただろうか。その花は果たしてどのくらいの大きさで、どれほどの多さで、どんな感触で、どんな色あいだったのだろうか。
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つい先日、マンガ『図書館戦争』(弓きいろ)が完結した。
これはラブコメ小説『図書館戦争』(有川浩)シリーズをコミカライズした作品で、私がこれを初めて手にしたのは中学生の頃だ。
友人が「おもしろいよ」と単行本の第一巻を貸してくれたのがきっかけで、恋愛モノは苦手だったのになぜかのめりこんだ。のちに原作がすでに完結した小説だと知るとすぐ本屋へ走ったし、マンガも自分で買うようになった。
「読み終わったら貸して~」
あれから十年以上。
こたつにもぐって最終巻の表紙をめくると、母の声が聴こえてくる。
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母も私も、紙の本が大好きだ。
学校が休みの日に二人で出かけたら、必ず本屋に立ち寄って散財したものだ。家に帰ると、ミスドのドーナツなんかを頬張りながら買ってきた本を広げる。そのとき、母はいつも私が読んでいる本を見て「読み終わったら貸して~」と言った。
そうして決まって静かな読書タイムが始まる。鼓膜をなでるのは風が木の葉を揺らす音と小鳥のさえずり、たまに紙と紙がこすれあう音。やがて午後のやわい日差しが差しこむ居間で、きもちよく寝落ちしてしまう。
ハッと気づいたときにはいつも、母は台所に立って晩ごはんを作っているのだった。
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『図書館戦争』の小説やマンガも、読み終わっては母に貸した。
「堂上教官と小牧教官だったらどっちが好き?」などと作品内のヒーロー役二人を議題に話したりもした。実写映画化されたときは母のほうが先にチェックしてきて、「すごく良かったよ」と教えてくれたから私も観に行った。
そういえば逆に、二人してマンガ『DEATH NOTE』にハマって、それが実写映画になったときは。やっぱり先にチェックしてきた母が「キャスティングは完璧なんだけど、ストーリーが原作と違ってねぇ…」と言うもんだから、私は結局観に行かなかったな。
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あの冬、まだ『図書館戦争』は完結していなかった。
母の体を棺に入れる。葬儀屋さんに「ぜひ思い出の品など入れてください」と言われ、よく着ていたデニムシャツと、「いつか聖地巡礼したい」と言うほど大好きだった本『赤毛のアン』を入れた。
いつもかけていた眼鏡は「燃えないから」と入れられなかったけど。それがちょっと納得いかないぐらい、まだ私の中身は未熟だった。
だから、納得いかないことは社会を知れば知るほど増えていった。たとえば身近な誰かを喪失した悲しみを一年以上引きずる状態は、一種の精神疾患と認められる場合があるらしい、とか。
母は私にとってただ一人の母親であり、親友であり、唯一の絶対的な味方だったんだ。だというのに悲しみの期限がたった「一年」だなんて。いくらなんでも短すぎるじゃないか。
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母の話を書くとき、いまだ私はどうしても泣いてしまう。
いい加減泣いてちゃだめだと考えた時期もあった。もう思い出すこと自体やめようと思った時期もあった。ディズニーランドで撮った写真も、二十歳の誕生日にプレゼントしてくれた手作りのテディベアも、押し入れの奥深くに封印していた。
でも結局、すべて耐えられなかった。
だって、世界は想い出の片鱗で溢れすぎている。
一人暮らしを始めるとき譲ってくれた、シンク下にしまいっぱなしのお菓子作りの道具たち。父親に内緒で二人で食べたビッグマック。リサイクルショップでみつけてきたお気に入りのデニムシャツ。一生完コピできなかったお笑い芸人のギャグ。モノマネしたら笑ってくれた『地上の星』。リビングに差しこむ陽。そしてたくさんの本、本、本。
これだけじゃない、時とともにもう思い出せなくなった何かも私の根底には息づいているらしく、ふとした日常に胸が疼いてしまう。
だからもう諦めることにした。母を思い出したら気が済むまで思い出し、泣きたくなったらとことん泣くことにした。
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あの冬から五年。『図書館戦争』がついに完結した。
「すごく良かったよ」最終巻を閉じる。
このマンガは記憶を呼び起こす一つのフックだったけど、それが終わっちゃったんだ。寂しいな。
そういえば私は貸すばかりで、あなたが読んでいた本を借りたことがなかったな。実家に数冊でも残っていないだろうか。
そうだ、一度『赤毛のアン』を読んでみよう。本屋で手に取る本はいつも被らなかった私たちだから、それが私の好みに合うかどうかはわからないけれど。
そうやって語りかける。”お墓の中にいない”とは、こういうことなんだろうな。思い出したり投影したりすればいつでも会える。亡くなった人は遺された私たちの中に生きているから。それは悲しみのようでありながら、常にそばに在る光なんだ。
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「亡くなった人を思い出すと、その人に花が降る。」
ならば花弁は大きく、戸惑うほどたくさんの数の、なめらかで柔らかくみずみずしい質感で、たとえば真紅とか橙とか、できるだけ鮮やかなものであれ。
写真もテディベアも、陽の当たる部屋の片隅で笑っている。
今はそっちでさ、呆れるほど降る花に笑ってくれよ。
思い出して祈って、また花を降らせる。心にその光景を描けば、私の胸に光は生まれる。それは何でもない日々の中にありながら際限なく力をくれる、決して忘れられない――忘れたくないものだ。
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sakuさんの企画「#noteリレー」に参加させていただきました。まさか私にバトンが渡ってくる日が来るとは。
【ささやかな煌めき】というお題とともにバトンを渡してくださったのは、千羽はるさんです。
同じ”千”つながりということで…(むりやり)、あたたかみに包まれた強さを感じる文章が素敵。強かな桜の物語をぜひ読んでね!
「リレー企画とかプレッシャーだから断ろうかな…」などと悩みもしましたが、このnoteを書くことで気づいた想いもあり「参加して良かったな~」と思っています。素晴らしき機会をありがとうございました!
さて私が次にバトンをお渡しするのは、逆佐亭裕らく師匠。
大喜利力を駆使した“おもろ文章”の中でたまに刹那的感傷をもって刺してくる、非常に油断ならない方です。
バトンと一緒にお渡しするお題は……ここ最近の花粉すら舞い出すような陽気からとって、【あったかい】でお願いしたいと思います。
楽しみにしてます、師匠!
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