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生きづらさを小さな宝物のように抱きしめて
ふたつ上の姉に、よくお気に入りのビーズやおやつを取られていた。
「ちょっと借りるだけだから」といってアクセサリーなどを作り、「もう取り出せないから、返せないや」などと。
いい返せなくて黙り込んでしまっていた。
それがイヤだった。
くやしくて。
姉との口げんかでも鍛えられ、いつしか口が達者になったらしい。
ビーズやおやつを守るために。
いいのか、悪いのか。
いつからか社交的、といわれていた。
まだコミュ力という言葉がなかったころ。
「友達を作るのに苦労したことないでしょ」といわれたことがある。
自分でそう思ったことは一度もなくて。
友だちはいたけれど、その友達に誤解されることも多かった。
引っ張っているように思われて、引っ張られることが多かった。
習い事の帰り、「今日は早く帰ろう」と思っていても、
「ねえ、ご飯食べに行こうよ。おなかすいちゃった」といわれると、断れなかった。
友人は「一緒にご飯行こう」と誘った後で「彼から連絡あったから、今日はなしね」と悪びれないで帰ることがあった。
悪気もないし、いいのだけど。
私の都合を聞いたことはない。
別の知り合いには「あなたならいえるから、いってよ」
と、お店への文句をいわされることがあった。
「私ならいえるってどういうこと?」
と思いながらも伝えた後、グッタリ疲れた。
私ならきっと平気だと、思われているんだろうな。
画用紙を何度も消しゴムで消すと、ザラリと紙がめくれる。
そんな、不快を味わったことは何度もあって。
もっと強い不快を感じている人がいて。
歩いているだけで、すぐ転んでしまうとか。
空気を読めないとか。
教師に常に叱られるとか。
「普通にできない」といわれるとか。
兄妹でも、まったく理解されないとか。
「わかる」なんていえないのに、「わかる」といいたくなってしまう。
『ガラスの海を渡る舟』(寺地はるな)は、ガラス工房を営む兄妹の、10年間の物語。
父親にいつも「なんで俺に恥をかかせるんや」といわれ続け、「普通」やあやふやな言葉がわからない兄・道。
「お母さんはいつもお兄ちゃんのことばかり」と悲しみ、怒りながらも、兄の才能に嫉妬する妹・羽衣子。
大切な人の死、裏切りもあり、暖かく見守ってくれる人の言葉があり、ふたりは静かに理解し合っていく。
大きな器に浮かぶ木の葉のように、揺れながら近づいていく。
目が開かれる、会話の場面が多い。
道はガラスの骨壺、を作るのだが。
娘を亡くして悲しんでいる母親に
「前を向かなくていいです」という道。
「前を向かなければいけないといわれても前を向けないというのなら、それはまだ前を向く時ではないです。準備が整っていないのに前をむくのは間違っています(後略)」
道は発達障害のようだ。「発達障害」という言葉は、小説に一度しか出てこない。
「ぼくには他人の気持ちがようわからへん」
「わかります、て嘘つくこともでけへん。けど、それでいいと思うようになった。理解してなくても、たしかにそこにあったっていう事実をぼくは知ってる。知っとこうと思ってる」(道の言葉)
もっともっと上げたい言葉があるけれど、それは読んでいただくとして。
ハッとして、心がまっすぐになるような言葉が、あふれている。
寺地はるなさんを読むのは3冊目。
「普通じゃないといわれるけれど、普通って何?」と問いかけてくる。
問いかけで、風が吹く。
固まりかけた頭に、心に、感覚に。
透明で彩り豊かな、ガラスの光が、私の芯に届く。
生きづらくてもいい。
あなたはそこにいる。
それを大事にしたい。
抱きしめたい。
そして、自分を認めよう、とも思う。
いいんだよ、と。
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