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35: 心の傾向(2/4)- 体験を言語化して認識する
今回は、文書が苦手な千代能にとって、とても困ったテーマになります。
どれだけ、自分の伝えたい内容を表現出来るか心配です。
こんな内容でも、読んでいただければありがたいです。
今回も千代能の個人的な考えになります。
それでは、本題に入ります。
今日取り上げる「心の傾向(2/4)」は、
自分の体験を認識する際に「言葉」を使って認識する。
と言う傾向です。
傾向と言うより、それ以外に方法が無いのかもしれませんが💦
でも、赤ちゃんは、言葉を使わないで世界を認識している筈ですから使わない事も可能ですよね???
話を戻して、言葉を使わないと体験を表現する事が出来ません。
ところが、「言葉を使うことで体験を認識する」と言うことは、「不可能に挑戦するような問題」を内在しています。
その問題をいくつか取り上げてみます。
言葉によって体験を理解する時、本来、境界も限界もない体験が、限界のある言葉により表現されてしまうために、体験そのもが言葉の限界によって切り取られてしまいます。
例を使ってもう少し説明します。
例えば、空の色を「青色」という言葉を使った場合、「実際の空の色」と「言葉の青色」の差はどれだけになるのでしょうか?
また、自分の心の中の「青色のイメージ」と、言葉を聞いた相手の心の中の「青色のイメージ」の差は?
一体、何が伝わったのでしょうか?
それぞれが違っていて、何となく伝わっている事を前提にして会話が行われます。
もう一つの見方として、本物の「チューリップ」を見たとします。
目の前にある「チューリップ」の事を、自分はどこまで知っているのでしょうか?
目の前にある花の名前が、「チューリップ」だとわかると、そこで「チューリップ」とのコンタクトを止めていないでしょうか?
名前がわからない花だったらもう少し真剣に向き合ったかもしれませんが・・・
名前が分かったら、その対象が本当は何かわからなくても対象への興味が止まってしまっていないでしょうか?
もう一つの例として、
自分の体の境界はどこにあるのでしょうか?
皮膚の表面でしょうか?
本当にそうでしょうか?
ここから先は、自分にはわかりません・・・
以上、いくつか言葉について自分の疑問を書いてみました。
自分が体験を認識する場合、定義によって規定された言葉を使用することになります。
その結果、言葉によって認識された世界は継ぎ接ぎだらけ、断片だらけになってしまいます。
もし、言葉を使わず世界をそのまま見る事が出来たら、その断片が・・・一つに戻るかもしれません。