【掌編小説】点で紡ぐ #お気に入りの音楽で言葉を綴ろう
頬が濡れる嫌な感触で目が覚めた。枕元のスマホに手を伸ばすと時刻は3時5分を回ったところだった。楽しい夢を見ていたはずなのに、急転直下、絶望の淵に立たされたところで現実に引き戻された。
隣を見ると貴方は眉間に微かにしわを寄せて寝息を立てている。まだ「そこ」に居ることにほっと胸を撫で下ろした。
昨夜、無作法に脱ぎ捨てた服がぼんやりと、暗闇に浮かび上がってくるのをなんともなしに見ていると、貴方がうっすらと目を開けた。
「……どした?」
その掠れた声さえも愛おしく思う。
「ううん。起こしてごめん」
「ん……」
そう言いながら貴方は体制を変え、右手でそっと私の左頬を撫でからまだ目に薄っすらと浮かんでいた涙を親指で拭ってくれた。
「何……考えてた?」
「……幸せだな、と思って」
「俺もだよ」
「……明日なんか来なければいいな、とも」
私がそう続けると貴方は一瞬、ほんの僅かに困ったような顔をした。
明日も明後日もこの先もずっと貴方の側に居たいと願う。だけどそれは叶わない願いだ。いつもなら願うのは“この幸せな時間が止まればいいのに”。だけどこの日は、“明日なんか来なければいい”、そう思った。
***
「企画部から異動してきました。1年間ですが、営業のなんたるかをスポンジのように吸収していきたいと思います」
そう元気よく挨拶をした貴方は企画部時代から評判がよく、本社から遠く離れたこの営業所にも噂が届いていた。
担当していた女性営業が産休に入る1年間、相棒のいなくなった私は貴方の営業補佐をすることになった。
本当は営業がやりたかった。入社した当時のように。
だけど完璧に仕事をこなす女性営業は目の上のたんこぶだったようで上司や同僚から嫌がらせを受けた。転職するか、異動をするか、職種を変えるか。迷った結果、営業補佐として会社に残ることにした。
するとぱったり嫌がらせが止んだ。小っちゃい会社だなと思った。
そんな日々を過ごしていた私の前に現れた貴方は私の理想とするような営業スタイルを取る人だった。補佐の仕事にもやりがいを見出せ、毎日が楽しくなった。貴方のいいところとだめなところを俯瞰的に見て伝え、補った。そして貴方は補佐の私の足りない部分を補ってくれた。貴方に惹かれていくのは時間の問題だった。
「1年経ったら俺……企画部に戻っちゃうけど」
私の腰に手を回しながらも貴方が私に告げた。
「それでもいい」
あのときに発した言葉は嘘じゃない。目の前に幸せがあるのなら掴みたいと心から願った。限りある恋だとわかっていても掴まずにはいられない位、貴方のものになりたかった。
1年かけて思い出はどんどん増えていった。私の弱いところも過去も全部ひっくるめて好きだと何度も言ってくれた。幸せすぎてこわくて、不安だった。貴方との抱擁がこわさと不安を全て拭い去ってくれた。そのときいつも思った。このまま時間が止まればいいのに……。
だけど時間は誰にも止められない。明日はすぐ後ろに迫っていた。
* - * - * -
夢にきみが現れた。二人で訪れた場所。楽しかった場所。俺を呼ぶ声はいつも耳に心地よく、時折ふざけるきみも愛おしい。ずっと夢の中で漂っていたいと思った。この中では俺たちは永遠で、二人きりだから。
遠くでシーツが擦れる音がした。ゆっくりと夢の世界から現実へと引き戻される。するときみが小さく、鼻をすする音がした。俺はきみの方へと向き直り、親指で目尻を拭った。
「何……考えてた?」
「……幸せだな、と思って」
「俺もだよ」
「……明日なんか来なければいいな、とも」
時間的にはもう“明日”になっているのだろう。だけど暗闇に包まれている俺たちはまだ”昨日”の中にいた。
何が“俺もだよ”、だ。
数秒前の自分を殴ってやりたかった。きみは何も言わないけれど泣いていたのはきっと俺のせいなのだろう。いつも鈍感で、自分勝手で子供なのは俺ばかりで、そんな自分が嫌になる。
***
「営業を叩き込んで戻ってこい」
1年前の今頃、当時の上司に言われて俺は企画部から営業部に異動してきた。昇進には営業経験が必要不可欠ということで1年で必ず企画部に戻れるという約束付きの珍しい異動だった。
「今日から営業補佐につきます、よろしくお願いします」
それが俺ときみの出会いだった。
元々営業をやっていたが諸事情で数年前から営業補佐に転換したというきみの仕事は的確で、営業のなんたるかは全てきみに教えてもらったと言っても過言ではなかった。基本的にセットで仕事をこなしていく俺たちはお互いのいいところ、だめなところを補い合うことで成績をのばしていった。だから“そういう関係”になったのは至極当然の事のように思えた。
「1年経ったら俺……企画部に戻っちゃうけど」
まだブレーキがかけられるぎりぎりのとき、俺はきみに問いかけた。というのも俺には帰る場所が決まっていたからだ。部署としてはもちろん違う畑になるし、物理的な距離としてもそう軽々と会えないくらい、勤務地だって離れることになる。
「それでもいい」
きみの一言を聞いて俺はブレーキから足を外した。
1年間、仕事とプライベートを合わせるとほとんどの時間をきみと共に過ごした。きみとの思い出は増えていったし、きみの難解な性格も少しずつ理解し、噛み砕いていった。しっかりしているようで本当は傷つきやすい性格も、泣き虫なところも知れば知るほど愛おしかった。
だから気づかないふりをしていた。1年間というリミットがあることを。
だけど明日が、いよいよその日がやってきた。
* - * - * -
「ごめんね」
一度糸が切れたら最後、表情がみるみるうちにくしゃくしゃになっていく。
「俺の方こそ、無神経でごめん」
「無神経なんかじゃない。だって、わかってたもん。だから今日は……泣かないようにしようって思ってたんだけど」
最後の最後まで、らしい発言に胸がぎゅっと締め付けられた。震える声をぐっと抑えながら波打つ目をしっかりと捉えて言った。
「俺の前では泣きたいときは泣く。そういう約束だったでしょ?」
「そうだけど……」
細くて長い両腕が首へと向かってするすると伸び、顔をうずめる。
その泣き声は静かな部屋にしっとりと響いた。一度だけ小さく“ごめんね”という声がした。
二人が過ごした時間は思い出となり振り返れば確かにそこにある。思い出を辿るとそれは線になり、一本の道になる。
二人は抱き合いながらせめて最後の「点」は、幸せでありたいと強く願った。
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七海さんのこちらの企画に参加させていただきました。滑り込みです。
彼らの詳細設定はご想像におまかせします。色々あるんです。色々。
取り上げさせてもらったのは『点描の唄』。この曲を初めてSpotifyのシャッフルで聴いたとき、震えました。なんかもう泣きそうで、どうしようもない感情が湧き上がってきたのを覚えています。後に、Mrs. GREEN APPLE(feat.井上苑子)の歌だと知って、もっともっと大好きになりました。何度もリピートして聞いています。
曲のリンクはMrs.単独ver.とfeat.井上苑子ver.の2つを貼っています。どちらもいいです。ぜひ。
女性目線、男性目線、第三者目線の3部構成は初チャレンジです。明るい、キュンキュンするお話ではありませんがあたたかい目で読んでいただけたなら……嬉しいです。