#幸せをテーマに書いてみよう -幸せのカタチ-
「玲奈にとって幸せって何?」
“幸せになりたい”。先程、声を大にして言ったものの、亮太に問われて気づく。多分そこに決まった答えはない。私が導き出すものこそが答えだ。
「えーと……最低限度の生活が送れて」
「なんか日本国憲法みたいだな」
「だって、辛い暮らしは嫌だもん。あとは、美味しいごはんとスイーツがあって」
「食い気が出たねー」
亮太は口を開けて楽しそうに笑いながら言う。
「ほんと、そういうとこ玲奈らしいよな。それから? 続けて?」
「それから……何にも縛られなくて、自由で。私が好きな人達とこんな風に会って、喋って、何気ない日々を過ごすこと?」
「なるほどねー……」
亮太の相槌は先程と変わらなかった。だけど顔には先程は見られなかった柔らかい笑みが浮かんでいた。
これは以前に私が書いた掌編小説の一部である。私が考える「幸せ」について、登場人物の玲奈に代弁してもらった。
“幸せになりたい”。
誰もが一度は願ったことがあるのではないだろうか。だけど考えてみると「幸せ」とは漠然としていて、決まった答えはない。そもそも人はどのようなときに「幸せ」を感じるのか自分なりに考えてみた。
その結果、「幸せ」には2つのカタチがある、と考えた。
まず1つ目は「一人で感じる幸せ」である。
寝ているとき、お風呂に入っているとき、本を読んでいるとき、お酒を飲んでいるとき……。個人によって差はあるが「自分の時間を過ごす」中で幸せを感じる人も多いのではないだろうか。私の場合、文章を書いているときやスイーツを食べているときがこれにあたる。日常の嫌なこと全てから開放され、自分の気の向くままに過ごす時間。1日24時間の中で少しでもその時間を手に入れられたとき、人は幸せを感じるのだと思う。
そしてもう1つは「誰かと感じる幸せ」だ。
子供と遊んでいるとき、好きなアーティストと同じ空間にいるとき、好きな人と一緒にいるとき……。「自分の時間を共に過ごす」中で幸せを感じる人も多いだろう。私の場合、大切だと思っている人に会う、話をしているときがこれにあたる。心安らぐ人と何気ない日々を、多くの時間を共に過ごすこと。貴重な、有限な時間をそこに充てられるのは贅沢な一時だと思う。
私はこの夏、大きな決断を下し、新たな一歩を踏み出した。それは自分らしい人生を歩むため、そして、幸せになるための第一歩だった。
目の前に広がっていたのは未来へと続く道。しかし、後ろを振り返ると今まで歩んできた過去があった。今の私が存在しているのは過去があったから。それは紛れもない事実だ。
だけど今、私が直面している問題は私自身を過去と未来の狭間に閉じ込め、前へと進ませてはくれなかった。
そんなとき、私を支えてくれた人がいた。
側で助言をくれた人、励ましてくれた人、寄り添ってくれた人、気遣ってくれた人……。自分がピンチのときに手を差し伸べてくれる人がいる。なんて幸せなんだろうと改めて感じた。今、私が毎日を生きていられるのはそんな心優しい人がいるからと言っても過言ではない。
最近、辛くて息苦しくて、ふとした瞬間に生きる意味を見いだせなくなることがある。過去にこんな気持ちになったことがないので自分でもちょっとやばいなと思う。だけど何とか毎日を今まで通りに生きていけているのは、踏みとどまれているのは私を支えてくれる人の存在があるからだ。
いつか、前に進むことができたなら。
私なりに”2つのカタチ”の「幸せ」を追い求めながら、手を差し伸べてくれた人達に恩返しがしたい。その結果、みんなが今よりもっと「幸せ」になってくれたなら、私は3つ目の幸せのカタチを手に入れられるのかもしれない。
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あきらとさんのこちらの企画に参加しております。
ちなみに冒頭部分はこちらの掌編小説からです。