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[ショートショート] 庭師のハンスと接吻代行

 私には秘密があった。

 午後のお茶を抜け出してこっそり庭園に出ること。

 噴水の側のベンチに座っていると、庭師のハンスが時間通りにやってくる。

 ハンスは私の姿を見ると、にっこり微笑んで会釈する。
 会話することはほとんどない。時々私が植物について質問するくらいだ。

 私とハンスではあまりに身分が違いすぎて、気軽に話などできる間柄ではないのだ。

 それでも私はハンスの顔が見たくてここに足を運んでしまうのだった。

 ハンスは私が幼いころに住んでいた屋敷の庭師の息子で、私の遊び相手だった。

 それからお父様が公爵になって王都に来てからはしばらく姿を見ていなかったのだけれど、こんなタイミングで再会するとは…。

 しかも、ハンスったら見違えるほど立派になっていて…。

 運命のいたずらとは皮肉なものである。

 ついに私はこの国の正式な王太子妃となる。もうこの庭園にも気軽に出てくることも叶わない。

 ハンスはそのことを知っているのだろうか。…知っているだろう。私が誰でどうしてここにいるのかも知っているのだから。

 今日が最後。私は二度とハンスに会うことはないだろう。

 私は動揺していた。自分が動揺していることに動揺していた。

「ハンス…」

 気が付いたら私はハンスに声をかけていた。ハンスはいつものとおり、目を伏せて恥ずかしそうに頭を下げた。

「ハンス…わたくし…」

 自分でも何をしているのか解らないまま、私はハンスの手を取った。

「お、お嬢さま…何を?」

 驚いたハンスは慌てて手をひっこめてしまった。

「わたくし、木の剪定に少し興味がありますの。教えて下さらない?」

「そ、そうなんですか?」

 ハンスは少しほっとした表情になり、持っていたハサミを私に手渡すと、丁寧に葉や枝の切り方を教えてくれた。

「ご存じかとは思いますが、わたくしはもう、ここには来られなくなります」

「はい」

「どうぞお元気でいてくださいね」

「…はい」

 ハンスの声は震えていた。彼も悲しんでいる…。そう思いたかった。
 彼への愛おしい気持ちが爆発しそうだった。

 私が求めたら、彼は受け入れてくれるだろうか…。だめ、それはだめ。だって彼は立場上、拒むことができないのだから。
 彼の本当の気持ちは私には知る術がない。

 そんなことを想いながら、ハンスの側で木の葉を弄んでいると、向こうから王太子が歩いてくるのが見えた。

 私はギョッとして思わず隠れようとしてしまった。

 こんなところに王太子が来るなんて、しかも一人で? あり得ないことである。
 見つかってしまった。

 私は全身から血の気が失せるのを感じた。

「ハンス、今すぐ逃げなさい」

「お嬢さまは何も疚しいことはしていません、ここは堂々と…」

 ハンスが小声で言った。私はハンスの言う通りだと思った。

「これはこれは。こんなところで日向ぼっこかい?」

 王太子は普段と変わらない様子で話しかけてきた。

「はい、殿下。あまりにお庭が美しかったもので」

「そうだろう。ここは我が城でも最も美しい場所のひとつだ。なあ、庭師」

 王太子はハンスの方を見ながら言った。そこにどんな感情が乗っているのかは読み取れなかった。
 ハンスは頭を下げて震えていた。かわいそうに。すっかり怯えてしまっている。

「この場所で佇む君も随分と麗しい。今すぐにでもその手に接吻をしたいところだけれど…ずいぶん土や植物と戯れていたようだね」

「これはその…」

 私はさっと手を後ろにまわして隠してしまった。これではまるで叱られている子供みたいじゃないの…と思いながら。

「おい、そこの庭師」

 ハンスはビクッとしてより深く頭を下げた。

「私の代わりに彼女に接吻をしろ」

「はい?」

 これにはハンスも私もびっくりして目を丸くしてしまった。

「聞こえなかったのか。彼女に接吻だ。拒むのならこの場で斬り捨てるぞ」

 王太子は腰の短剣に手を当てながら言った。この人は本気だ。拒否する隙を与えてはくれない。

 私は王太子の顔を見ながら、そっとハンスに手を差し出した。
 ハンスは片膝をつくと、私の手をとり、震えながらそこに唇を押し付けた。

 手の甲から伝わるハンスの唇の暖かさが電流となって私の体を駆け巡った。

 好き。わたし、ハンスが好き…。

 私はハンスを愛していた。彼が触れることでそれを理解した。
 そして、彼もまた私に愛情をもってくれていることがわかった。

「お嬢さまどうぞお幸せに」

 ハンスは名残惜しそうに私の手を離した。

「接吻代行ごくろう。もう行っていいぞ。二度と私の前に姿を見せるな」

 ハンスは再び深々と頭を下げると走ってその場を立ち去った。
 私はその後ろ姿を、一生目に焼き付けようと見送った。

「何をぼーっとしている。行くぞ」

 王太子は何事もなかったかのように歩き出した。

「あ、あの…」

「あいつはお前の幼馴染だったんだろう? これまでのことは見逃してやろう。次あいつと一緒にいるところを見たら男を殺す。いいな」

 私は小さく「はい」と返事をして王太子の後について歩いた。

 それから私がハンスを見ることは二度となかった。
 風の噂では故郷に帰ったとのことだった。

 本当ならば処刑されていてもおかしくないことだったのかもしれない。何もしていないとはいえ…。

 王太子はいつから知っていたのだろうか。おそらく最初からだ。
 ギリギリまで私とハンスのささやかな日常を見逃してくれていたのだ。

 最後の接吻代行は私達への慈悲?

 とにかく、何を考えてるのかわからない、恐ろしくも優しくもある我が夫なのである。



410字にはまるっきりおさまりませんでした…
ごめんなさい。

たらはかに(田原にか)さんの『毎週ショートショートnote』に参加します。


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