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[ショートショート] 冬の色界:涅槃にはまだ至らず [シロクマ文芸部]
冬の色界は深々と雪の降る静かな世界だった。
僕はここに到達するまでにどれほどの時間を無駄に過ごして来たのだろうか。
あれは木々の葉がほんのり色づく秋の日。
僕は長年付き合っていた恋人に別れを告げられた。
それまでの僕はと言えば、その幸せが永遠に続くものと思い、この想いは清らかで僕らだけのものと思っていた。
だけれども、そう思っていたのは僕だけだったのだ。
彼女は僕の元を去って行った。
僕は彼女の行動を裏切りと感じ怒りに支配された。
そして絶望に呑まれて何日も家に引きこもりふて寝して過ごした。
寝ていると思考はどんどん内へと向いて行き、自分の何がいけなかったのか…。あの時ああ言ったのがまずかったのか…などと後悔の念に僕の心は蝕まれて行った。
挙句の果てに、僕はあろうことか、彼女に新しい恋人でもできたのではないかと疑いまで持つようになってしまったのだ。
僕にはこんな世界はとても耐えきれなかった。
だから僕は時間を進めた。
眼を閉じて何も感じなくなるまで果てしない時間を僕は漂った。
全ての思考が意味を持たなくなり、怒りも悲しみも僕の中から消えて行った。
負の感情が僕の中から消えて行くと、続いて喜びや安堵といった気持ちも消えて行った。
残されたのは一点集中。少しも揺らがず散り散りにならない精神だった。
眼を開けると、季節は冬になっていた。
外に出ると雪が降っていた。
雪の上を裸足で歩くと、冷たさが伝わって来たが、私の心は乱れなかった。
ついに私は到達したのだと悟った。
これが色界。何と静かな世界なのだろうか。
見下ろすと、女が首から血を流して倒れていた。
雪の上の血液がやたらと赤く見えた。
倒れているのはよく知っている女だった。
…僕の別れた彼女だった。
ああ、彼女は既に涅槃に至ったのだ。
僕にはまだ肉体がある。
踏みしめる足が雪の冷たさを感じているうちは、僕はまだ色のある世界の住民なのだ。
小牧幸助さんのシロクマ文芸部に参加します。