[ショートショート] 向かい合った鏡 - 迷宮 | 青ブラ文学部
鏡に向かって座っていると、そこに映っているのが全くもってまるで知らない人に思えてくる。
それは確かに私であるのに、光化学的においても紛れもなく私であるのに、私は目の前に映っている自分を自分だとは認識できないのだあった。
確かに鏡に映っている私はほんの少し過去の私であるし、この安物の鏡の反射率を考えるとせいぜい80パーセントにも満たない完全ではない私な訳なのだが、そう言った微かな違いでは済まされないほどに、鏡の中の私は全くの別人としか言いようのないほどには別人なのだたった。
「そんなことはあるまい」
鏡の中の私が言った。
「私は紛れもなく私であるし、それにさっきからあたかもこちらが鏡に映っている方だと言いたげな君だけど、映っているのはどう考えてもそちらの方だろう」
ここまでまくしたてると、鏡の中の私はいかにも正論を述べているとでも言いたげな顔をしてふんぞり返ってみせた。
私はその姿に少し苛立ちを覚えた。なぜならその様子が私自身とそっくりだったからに他ならない。
それに、こちら側が鏡とは聞き捨てならない発言だ。どう考えても鏡は向こうだろう。
こちらも鏡だと言うならば、鏡と鏡で合わせ鏡になってしまうではないか。
それならば、ここに映っているのはいったい全体誰だと言うのか。
鏡が向かい合うのは危険だ。
鏡が向かい合う時、光は限りなく反射を繰り返し、その反復の中に時間が閉じ込められてしまうと聞く。
そんな世界で私やその他のものが正常に存在できるとは思えない。
「私は鏡ではない。鏡に映っているのは紛れもなくそちらの方だろう」
「いや、そちらが鏡だろう」
「君こそ鏡だ」
こうして私たちは向かい合って座ったまま、相手こそが鏡だと主張し続けた。
それはそれは果てしなく長い長い間をかけて私たちは言い合いを続けた。
あまりに夢中になっていたものだから、私たちは自分たちの周りにはもう何も残っていないことに気がつくことができなかった。
知らない間に私たちは、ぼんやりした薄明かりの中で唯一存在するものとなっていた。
それもこれも、うっかり鏡の前に座ってしまった私が全て悪いのだ…。
ここから抜け出す術はそう、我々にはもう残されてはいない。
・・・
「稲光さん。まだ残ってたんすか」
背後で急に声がして、俺は心臓が口から飛び出るほどに驚いてしまった。
振り返ると後輩の松田が暗がりの中に立っていた。
「なんだ松田か。びっくりした。お前こそどうしたこんな時間に」
「いや、ちょっと忘れ物しちゃいまして」
松田はそう言いながら俺の画面を覗き込んで来た。
「またフリーズすか?」
俺の画面には左右にひとつずつ、ウネウネと上下する波形が表示されていた。
「あんまり無理しないでくださいよ」
松田は変化のない俺のモニターを少し眺めてからオフィスから出て行った。
オフィスは再び静まり返って、パソコンから発せられる微かなモーター音だけが響いていた。
ツインソーツ…この二つの頭脳を持ったAIは自己認識プログラムが走り出すと、必ずと言っていいほど固まってしまう。
お互いがお互いを自分と認識しようとするために無限ループに陥ってしまうのだ。
もちろん、従来通りにひとつの頭脳で処理すれば問題はないのだが、ツインでなければならない理由があった。
二つの可能性を同時進行できなければ、我々はこの先には進めない。
ふと顔を上げると、向かい側の窓ガラスに自分の姿が映っていた。
それはまるで暗闇に浮かぶ亡霊のように見えた。
「そんなものはいつまで経っても成功しないだろう」
後ろで声がした。松田ではない。松田はこんな喋り方をしない。
窓に映った俺の後ろに、誰かが立っている。
俺はその顔を見ることができない。
わかっているのだ。
「ふたつ同時は理論的にも無理だっただろう? どうしたってディレイが生じる。ハウリングだよ。この世がハウリングに満たされてしまう」
そいつは俺がまさにいま考えていたことを口に出して言った。
それは俺の思考より少し遅れて、ディレイとなって静まり返ったオフィスに響いた。
俺はゆっくり立ち上がると振り返ってそいつを見た。
そこには俺が立っていた。
まるで向かい合わせの鏡のように。俺たちは向かい合って立っていた。
・・・
「ああ…まただ…」
ヒカルはがっかりしてリセットボタンを押した。
何度やっても同じところでドッペルゲンガーが出現してしまうのだ。
この箱庭型ゲームは同時に二つの世界を寸分たがわず動かし誤差の少ない者が勝利するというものである。
世界中で数億人がプレイする神ゲーの一つだ。
操作する世界に少しでもディレイが生じると、片方の世界に主人公が移動してしまい全てを崩壊させてしまう。
こいつは神ゲーでありムリゲーなのだ。
大切なのは同時性。いかにシンクロするかにかかっている。
シンクロはヒカルが最も苦手とするものだった。だけれども、何故だかどうしてもこのゲームをやめることができない。
いつまでもやってしまう。
それほどまでに、ヒカルはこのゲームの虜になっていた。
十時間ぶっ続けでプレイし、さすがに疲労が蓄積してきた。
ヒカルは席を立つと、トイレを済ませ、洗面所で顔を洗った。
視線を上げると鏡に自分が映っていた。
それは全く見たこともない人のように思えた。
それは確かにヒカル自身であるのに、光化学的においても紛れもなく自分であるのに、ヒカルは目の前に映っている自分を自分だとは認識できないのだあった。
「んなことあるかい」
ヒカルは一人でそう言うと、再び箱庭型ゲームに戻りその世界に没頭するであった。
鏡はもうヒカルを映していない。次にヒカルがこの洗面台の前に立つまでは、鏡はヒカルを映すことはないのだ。
山根あきらさんの青ブラ文学部に参加します。